昨日の研究会に参加されていた方々に「我々の武術は老荘や少林の思想の体現なので、それ以上でも以下でもないのです」と言うことを言うと、そこにいたお坊様から「少林の思想とはなんですか」と質問を受けました。
ふーむ。改めて考えると難しい問題です。
難しいときはひとつづつ考えてゆきましょう。
少林、と言ってもより厳密に言うと、少林拳の思想です。
では少林拳の思想とはどのようなものかと言うと、座学のみならず、行を通して法を感じようといった言い方でだいぶ良いのではないでしょうか。
大切なのはこの、感じる、という部分です。
座学ではなくて身体を使うのはここがポイントだと思います。
そしてその、感じる、というのはどういうことかと言うと、元神の回復だと言います。
これは禅宗が老荘から得たところだと言われていますが、もとの小乗仏教に原型があった考え方なのでしょう。
元神とは本能ですね。動物というのは何も教わらなくても立派に生まれてきてきちんと生きてゆきます。生きて死ぬだけの能力は本来生物は持ち合わせてきているわけですね。この能力が元神です。
しかしこれは、人間の発達した個人意識(識神)が曇らせてしまう部分でもあるので、その曇りをさって本能をきちんと働かせてゆこう、と言うのが元神の回復です。
とはいえ、これは元神に乗っ取られて猿に先祖返りしてしまうということではありません。両者が健全に強調して一個の人間だということです。
この、自分の本能の部分を行で回復させると、人間的な悩みのほとんどは消えます。
なぜなら動物が悩まないのはただ頭が悪いからではなく、肉体に生のリアルな体感があり、それが人間の脳の苦しみを希釈するからです。
本来、動物というのは快に導かれてしか行動をしない。
人間の三大欲求を顧みても、それが危険なまでに甘美であることに思い当たるはずです。
本能に導かれて生きれば、すべてのことが同様の快楽です。
ただ息をし、物を見るということがそれだけで楽境地です。他の五感も同様です。
この状態にあるなら、人間的な苦しみがあったとしても相対化されることは間違いありません。
ここで勘違いしてほしくないのは、決してこれはスピリチュアルのような自分の脳みそをペテンにかけてだますようなうその喜びではないということです。
行によって感性を取り戻した肉体の感じるよろこびは、そんな口先や小手先の物とは無縁です。
例えをだしましょう。よく、コップに水の話がありますね。
コップに水が半分残っている時に「もう半分しか残ってない」と感じるか「まだ半分残っている」と感じるか、なんて話があります。後者が良いですよね、というのがスピリチュアル的な発想です。
元神はどちらでもありません。
感じるのは「水おいしいなーーーーーーーーーーーーーーーーーあ」でしょう。
その感覚でいっぱいに満たされているので、まだあるとかもうないとか妄想(もうぞう)に取りつかれていないのです。いま、そこにある喜びに自然に集中しているのです。
そして水がもう必要なくなるまでに満足すれば、ただもう水には関心がなくなるだけです。必要な物を必要な時に必要なだけ。
コップなどと言う人間が勝手に作った一過性の単位に振り回されない。
このような感受性を持つ元神を育む行が、気功です。動物の身体の使い方を模倣して体得します。
そして気功の身体の使い方で行う運動が、少林武術です。
私の得た、少林の武術の思想と構造とは、このような物だと思いますよ。