先日、ベルリンで大規模なデモが行われました。
アメリカやブラジルで行われたのと同じ、COVID19による行動規制を解除の要請を訴えた物です。
もちろん、我々はその結果がどうなったかを知っています。
両国は経済再開の結果、世界トップクラスの感染者数を保持するに至ったのですが、産業国として名高いドイツも後に続けの気風が高いようです。
そしてとうとう、日本でも同じことが起こりました。
渋谷のハチ公前で、クラスター・フェスと標榜した人々によって、マスクをせず、密を形成することで、COVID対策の行動規制に反対するというデモ活動が行われたのです。
彼らはその後、大挙して山手線に乗り込み、車内でもそのパフォーマンスを続けて行いました。
扇動しているのはちょっと信ぴょう性が不確かな印象の政治活動をしている人で、彼らのパフォーマンスは危険だ、テロ行為だとの批判が起きています。
もちろん私はここで、それを否定するような私的な感情で記事を書こうとしている訳ではありません。
人類史に照らし合わせて現在思想と世界情勢の流れのいまを読み解くべくこうしてキーボードに向かっています。
以前、ここでホッブスのリヴァイアサンについて書きました。
現代と同じようにパラダイム・シフトの時代に書かれた非常に重要な本で、教科書でもそのように取り上げられていたのに、まったく読んだことが無いという名著です。
相変わらず読んだことが無いので、哲学の入門書より孫引きをするのですが、つまりはそこに書かれていたことと言うのは「世の中を平和に運用するには、民衆によって選ばれた権力者による統治が良い」という物だそうです。
ヨーロッパの権力と言うのは、教会権力かそれに準じた王権神授説に基づいた物、および絶対王政となっていた訳ですから、そのような巨大な権力者が民衆によって選ばれるというのは充分に進歩的な発想だったことでしょう。
民衆が選んだわけではないにしても、孔子や老子などによっても有徳の君主によって善政が敷かれるということは書かれています。
また、産油国などでは民衆のインフラや生活費などを王室が持つという国もあるそうで、そう考えると良い独裁なら国民にとっては生き良い物であるということは充分に考えられます。
しかし、ホッブスの理論は後にヘーゲルによって疑問をさしはさまれることとなります。
というのは、選別が行われた当初はその君主の権力下が多くの人にとって良い物なのでしょうが、人間と言うのは新陳代謝します。
その後に現れた人達や以前とは環境が変わった人達にとっては、ホッブス型権力者の制度に不満が湧くことがある。
もちろんその選ばれた権力者は選ばれたなりの優秀で好もしい人格なのでしょうが、その下で民衆に働きかけられるのが「制度」である以上、それによって阻害される「自由」という物が存在してくるわけです。
例えば、東京五輪が決定するまで、日本と言う国では深夜の12時以降、ダンスをするという行為が禁止されていました。
これは明治時代に設定されたもので、そんな時間に外で大人が踊っているのは犯罪の元だという考えから作られた物です。
ダンスをしない人にとってはまったく関係のない法律ですが、制度として他人が好きな時に好きなことをすることを規制する権力が存在しているということが、日本国の法律が拠っている新自由主義の考え方からすると非常に奇妙な物となります。
私自身、自分が居たクラブがそのまま踏み込まれて摘発を食らったという経験がありますが、この法律、一斉に職質を掛けるような時には非常に施行者側に都合が良い仕組みであるなあと思いました。
なんの嫌疑もかけられていない人々を何十人単位で一斉に身分や所持品検査が出来て、店内も捜査出来る訳です。
令状要らずです。
便利ですが、便利と言うだけで多くの人々がそれを看過している状態が継続され続けるということではありません。
五輪にかけてインバウンド景気を当て込んだ政府は、業界からの大きな抗議行動を受けた形で夜間のクラブ・イベントを規制するこの法律を改正するに至りました。
このようにして、どこかで誰かの自由と言う物は規制されています。
時代が変わってゆく過程で、その自由を制限された人々の不満は蓄積されて、ついには必ず抵抗活動が起きるということをヘーゲルは考えました。
抵抗活動とはつまり、戦争ということです。
そこで、ヘーゲルはリヴァイアサン式の権力構造に換わる新しい制度として「民主主義」という物を訴えました。
その根本思想は、不満を貯めさせず、戦争を起こさせないという目的を持っています。
そのための方針は「お互いがお互いを対等で自由な存在と認め合う」というところから始まります。
皮膚や目の色が違おうが、宗教が違おうが夜中にダンスをしてようが、それぞれの他人を対等で自由だと認めるならそこに干渉する余地はありません。
これを「自由の相互承認」と言い、民主主義の根底を支える原理だと言います。
その上で観るに、アメリカで「俺には死ぬ自由がある」や「私のウィルスは私の物だ」と書いたプラカードを掲げてデモをしていた人たちや、今回の山手線に乗り込んだ人たちの行動は「自由の相互初認」で認められるべきことです。
彼らのことを身勝手だと自分の勝手な価値観で裁いてヒステリーを起こす人たちはまた、同じく身勝手な人達でしかない。
自由の相互承認が行われないと、どうなるか。
戦争です。
毎年、八月になると反戦的なメッセージを沢山目にすることになります。
それに涙を流したり頷いている人たちを見るたびに、私は鼻白んだ気持ちになります。
そうやって戦争や良くないみたいなことを言った直後に、近所の誰かの悪口を言いあったり、自分とは違う誰かを差別的になじったりしている。
その感情、その姿勢、その生き方が戦争を起こした物だと言うことに、半永久的に気づく気配が見られません。
これまで繰り返し書いてきた私見「日本人の多くは行政を年貢を納めると責任を肩代わりしてくれる殿様だと思っているのではないか?」という疑念は、ホッブス式の君主社会の考え方であり、民主主義にアップデートされる前の時代の感覚に思えます。
日本社会にはまだ、民主主義は早すぎたのではないか。
君主制のレベルを願望している人が大多数なのではないか?
そのように思えてなりません。
そのような人々の上辺だけの反戦ムードが、結局のところ衆愚制とファシズムに繋がり、戦争への道を進ませる物になるのではないでしょうか。
私には大変おぞましいものに感じられます。