自由を生きる人が自由な世界に放り出される、それは海図も羅針盤もないまま大海におっぽり出されるようなものではないでしょうか。
海図というのは知識です。
これは学習で体得できます。
教養ですね。
しかし、羅針盤は?
それは個々人に預けられている。
それでは困る、行きたいところなんてない、誰か海図に行くべきコースも書いといてくれよ、と思う。
だから全体主義になるのです。
その結果、権力は権力であると言う理由で独立した存在になる、というのが「1984」というディストピア小説でした。
そこではビッグ・ブラザーと呼ばれる謎の存在が世界を管理しています。
これを踏まえて書かれた村上春樹の小説「1Q84」では「ビッグ・ブラザーはもういない。リトル・ピープルが世界を支配している」ということが描かれます。
リトル・ピープル、小市民とでも訳しましょうか。
「巨悪ではなく、小盗のような輩こそが本当に世界を悪くしている」というのが中国でも昔から思われている考えの一つですが、まさにそういうことではないでしょうか。
いまの世の中の生きづらさ、苦しさは、制度や巨悪の支配には由来していません。
自由になったはいい物の、自分が何をしていいのか分からない人々が原因になっているように思います。
このような人々は、一体何を始めるでしょうか?
一言で言うなら、自作自演です。
誰も何も加工してくれない自分の人生に味を見つけるために、自分でそれをでっちあげる。
自分より優れているや幸せそうな人を悪と訳付け、自分をドラマチックな物であると粉飾し、それを観客に設定した人々に向かって撒き散らかす。
現代社会の多くの問題は、このような物ではないでしょうか。
貧しくてパンを盗むとか、父を殺した仇を殺す、というような悪はいまの世の中では実に少ない物でしょう。
それよりも、元々なんの原因もないところに理由、つまり感情をでっちあげてそのままに犯す犯罪が非常に多いのではないでしょうか。
自粛警察と呼ばれる人々や、SNSでの誹謗中傷、逆にSNSでの自己表現としての愚行やリストカットなどは、みんな元々存在していないことが原因になっている。
全て、意味を持って生きることが出来ない人々の心の歪みに映った歪んだ見解が、そのさもしい心によって具現化されたがためのことなのではないでしょうか。
私が本当に、何度も何度も繰り返ししつこく書いてきた、オタクとオカルトとスピリチュアルが世の三大悪だというのは、これらが全て自分の内側の見当識の中にしか存在していない迷妄だからです。
高度成長期、私より少し年上の人々が十代だったころまでは、社会問題と言えば公害と不良でした。
不良? なんだそれ。
今どきのドラマで捏造された存在となって笑われている「ツッパリ」というのは、当時は深刻な社会問題だったのです。
彼らこそが、生きる自由を持て余して迷妄のままに生きた人々でした。
薬物を濫用し、暴力をあますところなく振り回していた。
本当に、なんの意味もなくただ自分の心の迷妄のままに人を攻撃する。
前都知事が小説家として書いていた「太陽族」というのはそのような人々でした。
ただなんとなく、気に入らないからとか面白いから、という理由で、自分の人生とは何の関係ない人をよく考えもせずに攻撃して、元々動機がない物だから達成点が想定されておらずに最終的に殺してしまう。
実際にそういった 心理で動いている人々が「ツッパリ」であり「暴走族」でした。
やりたいことが無いから、わざわざ進学して行った学校でいたずらに暴力を振るって人をケガさせたり死なせたりしてしまう。
校内暴力と言うのが全国的に発生して社会問題となっていた時期があったのです。
それが、社会が豊かになってきたときに少しづつ変化してきたことを象徴するのが、あの有名な歌の文句「盗んだバイクで走りだす。行く先さえ分からないまま」です。
理由なき反抗、明日無き暴走、自分でも何をやってるか分からないからこそ、自作自演で悪を実行してしまう、という仕組みだと私は想定しています。
やがて社会が高度成長を辞めて、尾崎豊のバブルの時代も終わり、リアルに社会的な生存が厳しくなってきた90年代から、暴走族やツッパリは自然消滅しました。
もう、生きる理由を見つけられないまま飽食して生きられるという時代ではなくなったからです。
慢性的かつ全体的な貧困と立ち向かう労力を背負わされました。
この時代に現れたのが、チーマーやギャング、あるいはある種のサークルのような存在です。
彼らはそれまでの、ツッパリや暴走族という人達とは違って裕福な家庭に育ち、大学に進学する人々が多かった。
そして、そこで出会った人たちとつるんで、薬物の乱用や婦女暴行などの事件を起こして問題となっていました。
相変わらず、目的を見つけられない人たちがそうなるのです。
その後、ネットが普及して個々人の自由が広まると、今度はメンヘラブームが起きてそれはいまに続いています。
そう言った自作自演の露悪性が、ネットという概念を実態にする機能によって現実化しています。
先日も、ネット上で知り合った人々による犯罪が検挙されました。
こう書くとこれは、きわめて今日的な現象のように思われますが、もちろんそういったことを起こす人間心理と言うのは昔から哲学者によって問題提起されてきています。
その代表が、お釈迦様です。
釈尊は「他人と比べることが地獄の始まり」と説き、自分の人生を生きることが幸せなことである、と説いています。
だからこそ普遍性があるのです。
しかし、当然いまでもその思想は世に広まって実践されているとは言い切れません。
途中で信仰となってしまった。
インドのすぐ脇、中国では老子や荘子と言った人々が現れ、やはり他人や俗世のことはいいから自分自身の生き方を求めることが幸せの道なのだと説きました。
しかし、これもやはり、民衆には信仰としてゆがめられて伝わり、その有効性をぼやかすことになりました。
釈尊も、老子も荘子も、「自分を信仰するな。自分で考えて生きろ」と信仰から哲学への意向を伝えているのに。
これ、ルソーの君主制から民主主義への挑戦が形式的な物となって日本で空ぶっているいる状態とまったく同じではないでしょうか。
自作自演で人生を浪費している暇は、幸か不幸か私には無かった。
だからこそ、現実の人生を生きて現実の物と日々出くわして、貴重な発見を取り扱う学問の世界に生きていられています。
本日も、東洋武術における重要な遺産を一つ与えられたばかりです。
真実に誠実になり、自分で自分に責任を持ち、自分の頭で考えたことに覚悟を持って生きること、それが結局のところ、人を幸せにするのではないでしょうか。
少なくとも、私は日々幸せではちきれそうになりながら生きています。
およそ見渡した限りの誰よりもお金を稼いでいないし、独身で恋人もいないし、美しくもないし権力もない。
でも、幸せなのです。
ただ、現実に自分の納得をした生を生きているというだけで。
だからもし、もうにっちもさっちも行かなくなって自分の心の歪みから起きた苦しみの中に居ると言う人が居るならば、まず、自作自演を辞めてウソの中で生きるの辞めてみたら? と思っています。