いくつか前の記事で、岳飛拳と回族武術について触れました。
結局、インドから武術が伝来した時に、回族の移動ルートである海側のラインを伝わって、中国南方に武術が来たのではないかと思うのですが、これ、まさに私の研究であるシンイーの伝来と伝播、そして、海賊武術ということに繋がってきます。
ここでややこしいので一回整理しますと、中国武術の長勁という一大発明は、実はインド武術から伝わったと言う説を私は支持しているのですが、仮説としておそらくはこれをシンイーだとみなしています。
シンイー、これは形意拳、心意拳、心意把の中国語での発音です。
漢族に伝わった物が形意と表記され、回族の物は心意、そして少林寺に至っては心意把となったと言われています。
形意拳においては明、暗、化という勁の転化を明言しています。
回族武術では心意を練ることで独自の勁を編み、それを他の拳(八極拳でも通背拳でも)に入れて用いると言います。
心意把も同様にこれは勁の練功法であると言われているそうですので、全て勁を暗勁、長勁に転化させるための物であると考えています。
もともとは、この勁を用いる武術が長拳と呼ばれていて回族武術の名拳だったと言うのですが、ある高名な先生曰く、その中身は失伝してしまっていると言います。
内容としてはインド武術のフラミンゴの極意であると言う話だそうで、つまりは片足立ちで立つことの勁です。
中国にはフラミンゴが居ないので、これは鶴に置き換えられたのではないかと言われていますが、ラーマキエンのところで紹介したガルーダの極意のようなものがあったのではないかとも考えられます。
いずれにせよ、これが分かれば鶴拳類の伝播の中身も見えてくると考えている次第です。
となると、鶴拳類の伝播と回族武術の伝播、そして南派武術の分布した南方の海洋ルートが一致するのは必然であるように思うのですが、ここでさらに一つのボムをドロップしてみたいと思います。
これは、海賊武術の発展に多大な影響を与えた倭寇の時のエピソードです。
倭寇退治の訓練マニュアル制作を通して、戚継光将軍は中国武術を大幅に改革したと言って良いと思われますが、彼が推奨している名拳の中にすでに、八翻がありますし、鷹爪も紹介されています。
この二つが鷹爪翻子拳と言うものとして現代にも伝わっており、その始祖が岳飛だとされているのはまた面白い話です。
私が教わっている岳家拳もこの系統に近しい物なので、これにシンイーが加われば岳飛、海賊武術パッケージが出来上がるような気がするのですが、実はそのパッケージがありえるのです。
と言うのも、この倭寇との激戦によって中国東側沿岸にて武術の大幅アップデートが行われていた時期に、新疆の回族拳士が倭寇対策のためにやってきて、山東省に自らの体得していた回族武術を広めたと言います。
彼の名を査尚義と言い、この武術はその名を取って査拳と呼ばれて大隆盛をしました。
そう。誰でも知っている査拳です。
この査拳、教門長拳というカテゴライズをされています。
教門とはイスラムの門ということです。
すなわち、教門長拳とは回族の長勁の武術ということ。
現在では上述の先生の説が正しければ長勁の用法は失われて基本拳となっているようですが、当然広まった当時はバリバリの長勁の強烈な実用武術だったはずです。
でなければ広まらない。
そして、広まるとどうなるか。
倭寇が使った倭刀術が戚家軍で研究されて中国に広まったように、中国側の武術も倭寇に伝わるわけです。
というのも、抵抗軍の内、負けた兵士が下ってそのまま倭寇になっていたのだから当然のお話。
また、この通称大倭寇ともいわれている戦乱は明の海禁令に対する抗議の反乱でもあったため、沿岸の住民たちが倭寇側として参戦もしていました。
このルートでもまた、イスラム武術(インド武術)は海賊武術に取り入れられていったと私は見ている次第です。
中国には様々な武術があり、それぞれに身体観や用勁を持っています。
その中の一つ、インドから伝播した長勁が少林寺で心意把となって南進して南少林拳となり、また別の2ルートからも鶴拳、長拳として伝わり、最終的に南海で融合していった。
この海賊武術の追及が、私にはたまらなく面白い。
その歴史自体が、人類の武術における大いなる遺産だと言ってよいと感じています。
蔡李佛、五祖拳、そして岳家拳、これらを学び続けることが出来るのは人生における大変な幸せだと日々感じています。