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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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理性と感性

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 このところ書いてきている色々なことの中に、ある種の私の思考の流れの軸のような物がいくつか見えてきているように思います。

 それは、伝統中国武術の指導者らしく、陰陽関係によって並べられている、哲学と信仰の一対の物であるように感じます。

 この二つが、相反する部分としての差異をもちながら 、ある種共通の枠の中に存在している物であるということは多くの人に共感いただけるのではないでしょうか。

 この二つの存在の具象として私は、思考と感情、また民主主義と共産主義、自由と支配と言った物の存在を感じているようです。

 感情的な信仰は共産主義の元の全体主義に通じる物のように思い、それは各人が完全に自覚を得た民主主義による自由な世界と同じく、結果的には素晴らしく良い物であるように思えます。

 もちろんすべてのことには色合いと段階と言う物があり、それらは過程という時間の流れの中にあるように思われます。

 お釈迦様は初めから哲学と言う物を訴え、それによって各人がそれぞれ自分の道を歩くと言う自由を得ることでよく生きることが出来るというお話を説かれました。

 これは、民主主義的な物であり、決して全体主義的な物ではないようにいまの私は思っています。

 しかし、もちろんこのような各人の能力を拠り所にした考えは全体に浸透するには及ばず、既存の思想と同じく信仰として普及しました。

 哲学と信仰というこの陰陽関係はまた、理性と感情という陰陽関係にも置き換えられるように思います。

 理性とは、根拠を求める心であると最近読んだ哲学の本に書いてありました。

 先に私は、伝統武術の指導者と言う立場について書きましたが、まさに私がそのような立ち位置から発言をするのは、私がこの「根拠」という物を強く求める性格だからでしょう。

 伝統思想の根拠として伝統武術による気持ち。自らの立ち位置の根拠としてその伝統武術に依る気持ち。これらは共通する物であるように思います。

 例えば、まったく根拠がなく、というのはつまり現場経験に裏打ちされていない護身術格技やその創始者に対して私はまったく理解を感じることはできません。

 これは根拠が見つけられないからです。

 だって、ぼくが思いついたから、というのがその創始者の根本なのではないかと思うのですが、それはまさに感情、そして信仰のカテゴリーにあるものであるように感じます。

 哲学が理性の弱い者に共感が得られないように、信仰もまた同じ信仰を持っていない人間には共感を得られづらいのではないでしょうか。  

 哲学や理性を持った人間は自立を得ることになり、他者の自由も認められる。

 信仰にのみ依っていると、それは難しく、同じ信仰を持つ者同士群れをなすことになる。

 そうすると全体主義に陥る。

 ブッダがある国では弾圧されたり、またその教えを中国に広めに来た達磨大師が皇帝に呆れられたのは、そのような理由があるのではないでしょうか。

 この発想を延長すると、悪政やハラスメント、ブラック企業などの蔓延には、非理性的環境が前提となるような気もしてきます。

 先日発表されたユニセフの調査結果では、日本の子供と言うのは健康状態と物質的豊かさに関しては世界トップだったそうですが、精神的幸福度ではワースト2位だったと言います。

 健康で物があるのにそんなことって。

 これはまさに、精神的貧しさの証明ではないでしょうか。

 日本社会の精神疾患の発症率の高さや、自殺率の高さがこれと無関係であるようにはとても思われません。

 自立した精神と生き方を持つ人間が生きやすい環境を作ることこそが、この問題を解決できるのでは?

 だとしたら、哲学と理性、根拠を持った生き方を肯定する環境がこの国には必要なのではないでしょうか。

 仮にこれを実験の結果だと読むとしたら、世界レベルでもっとも高い健康と物質を確保しているにも関わらず、この国の国民は狂って自ら死んでいっているのですよ。

 それは、生存環境として必要な物が何かを示してはないでしょうか?

 もちろん、このような発想があくまで根拠を求める心の導きだしたものであることは間違いないのですが。


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