さて、前回までジャッキー・チェンが発明した現代カンフー映画について書いてきました。
そして、今回はカンフー映画と銃器の話です。
私が最も好きなブルース・リーの映画は「ドラゴン怒りの鉄拳」なのですが、この作品はもちろんみなさんご覧になっていますね?
その伝説的なラスト・シーン、アメリカン・ニュー・シネマの「明日に向かって撃て!」からインスパイアされたのであろう、実に美しいリリカルな物となっています。
何が言いたいのか。
つまり、功夫は銃で終わる、という価値観が表現されているということです。
老師の所で一緒に練習しているお友達が言っていたのですが、良い功夫作品というのは必ず早い段階で銃器との関係性を表明するというのです。
アメリカ生まれ、アメリカ育ちのブルース・リーの映画では当然、西洋人のリアリティ・ラインが敷かれるので銃器にカンフーが勝るとは思われないと言う常識を基に物語が成立しています。
この同じ常識の上にあるのがカンフー・パンダですね。
ジャッキー・チェンは近代を舞台にした拳シリーズを脱却した時に、この銃器に関する常識の壁と向き合うことになりました。
なので、作中で拳銃が手に入るシチュエーションがあれば彼の演じる主人公は必ず手を伸ばします。
しかし、毎回なにがしかの理由が出て来てそれが使えなくなってしまう。
敵方が拾おうとした銃を立て続けに狙撃してどこかに飛ばしてしまったりする。
逆に、火薬兵器が上手く手に入ったときには実に強力な逆転兵器として活用します。
相手が使っていたカンシャク玉を用いていかにも意地悪に強敵をなぶりものにしたこともありましたし、数人がかりでも勝てなかった海賊の親玉をダイナマイトで吹っ飛ばして終わりだったということもあります。
後者に関しては結構「えぇ~」という声を上げた人たちも多かったようです。
カンフー映画なのに最後はラスボスをダイナマイトって!!
えぇ、ですから極々厳密にいうならカンフー映画ではないのです。
たまたまカンフーが得意な主人公が活躍する別ジャンルの映画なのです。
主演をジャッキー・チェンから武田鉄矢に置き換えてください。
ほとんどのジャッキー作品は成り立ちます。
そしてカンフー映画なのだとはみなしません。
つまりね、ジャッキーはカンフーが得意だけど本質的にはチャップリンなどと同じ、一流の見識を持った映画人だからです。
あまりにも誤解されている。
見た側が違和感を感じないくらい、さりげなくうまーく世界観を刷り込んできます。
一流の作品と言うのは、この辺りの挿し込み方が非常に上手なのだと思います
ドラゴン・ボールでも連載が始まってすぐに、主人公が超常的な力を持っていて功夫を使うということが明言されます
スタート段階では宝探しアクションだから別に功夫である必要はないのに、のちの展開での修行、大会と言った方向転換に対して初めから備えてある。
そして、その初期の段階でもう銃器との対面が描かれている。
悟空という新しい主人公が、拳銃で撃たれても「いぢぢぢぢぢ」とか言って涙がちょちょぎれても深刻なダメージは受けない存在でることが描かれます。
なので、彼と対等となる危機は拳銃のリアリティ・ラインを越えた怪獣やロボット、同じレベルの拳法遣いなのだ、ということが我々には自然に受け入れられるようになっています。
近年の正統派カンフー映画の末裔「カンフー・ハッスル」でも、主人公はまったカンフーの片鱗が無い段階から間接的に銃器と競争をするという描写があり、序盤に出てくるカンフーの達人たちもまた、銃器の使用を登場のきっかけとして顕れてそのリアリティ・ラインを表現しています。
そして、最後に現れる最も強力なラスボスとなるとその実力を知らしめるために銃弾を掴んで見せます。
そういった手続きを繰り返すことによって、銃器の存在を無効化した上のレベルで物語が展開するという説得力を刷り込んできているのですね。
毎度扱う「ジョジョの奇妙な冒険」でもスタンドという新しい能力が登場したときにまっさきに行ったのは、カンフー・ハッスルのラスボスと同じことによる銃器の無効化でした。
だからこそ、のちに拳銃のスタンドが登場した時に読者は「こいつはあまり大したことない三枚目的なキャラクターだな」という印象を受けることになるのです。
この「銃器の無効化」を上手にしている作品はきっと丁寧な仕事をする作品だと思いますよ。
身近なフィクションでぜひ確かめてみてください。