さて、前の記事で功夫と銃器について書きましたが、そこで触れたジャッキー・チェン。
彼は現代に至る「カンフー映画」という物を作った存在なのですが、このカンフー映画と言う概念、実はとても難しい物だ、というお話を今回はします。
中国のアクション映画が好きな人間からすればこれは常識のようなのですが、功夫映画と武侠映画は違います。
なので、グリーン・ディスティニーやツタヤさんの中華ドラマコーナーにある金庸先生原作作品のような物は、狭義では功夫映画とは言わない。
そういった物は古装片と言われて、我々の感覚からすると「時代劇」の範疇にある物です。
そして、それらのポイントは何かというと「剣劇」であるということなのだそうです。
そう。
ここにも、そもそも中国武術と言うのが兵器で戦うのが当たり前だと言う常識が土台に在ります。
では、逆にカンフー映画とは何かというと、これ、近代以降を舞台としたものとなり、アクションのメインはもちろん剣戟ではなくて徒手。
だって、刀や槍を携帯している時代の話ではないので、当然アクションシーンは素手を中心に、ナイフや拾った建材、そして銃器となります。
となると、カンフー映画と言うのは実はものすごく狭い範囲の、数の限られた作品を指定することになります。
こうなると、皆さん当然連想するのが、じゃあブルース・リーの映画ってことだよね?
となるのですが、それが難しいところ。
実はブルース・リーの代表作「燃えよドラゴン」は映画の歴史に残る作品ですが、まったくカンフー映画としては正統ではないのです。
私がこう書くと「リーは功夫が出来なかったからとか言うんでしょ?」と思われるかもしれませんが、違います。
別に主演が出来ようができまいが映画のジャンルには関係ありません。
燃えよドラゴンは、冷静によく見ると、あの時代に流行っていたスパイ・アクション映画の潜入物のサブジャンルに入る作品なんですね。
功夫がどうだかということは、ストーリーにほぼほぼ関係がない。
だから、主人公のエージェントも銃器も使わない。
相手は悪の組織のボスだし、身体も改造されていたりする。
これは明らかに007とかの作りですね。
劇伴の音楽もまったくその流れです。
リーで言うなら「怒りの鉄拳」が正統的なカンフーの世界、武林を描いたお話ですね。
リーは意図的に「燃えよ」ではカンフー映画ではない物を作ったのです。
それは、ショウ・ブラザースで活躍していたジミー・ウォングにインスパイアされてのことだと言います。
ジミー・ウォング先生と言えば本物の黒社会の人だという正統派のカンフー映画俳優的経歴を持った人です。
その中で、映画として新しい物をやろうとして革命を起こしました。
それまでは、香港の功夫映画産業と言えば食い詰めた黒社会の武術家がシノギとして行っていたので、武術の腕前も本物だしスタントでは軽身功を使って本当に飛び上がったり落っこちたりしていました。
そういう、雑技を映像で配給すると言う仕組みだった訳ですね。
しかし、ウォング先生はそこに映画そのものの概念を持ち込んで、特撮を用いたりトランポリンによる跳躍を持ち込みました。
彼の得意の片腕アクションというのは、それをベースに作られていました。
参考にしたのはアメリカの映画と日本の時代劇だったと言います。
特に座頭市に大きな影響を受けたそうです。
だから忍者やサムライが出てきたり、ナマコ塀っぽいところを背景に草むらを駆け抜けるようなシーンがあったりする。
そういった、当時の映像界で感性がとんがった人が目を付ける物をどんどん取り込んで行ったウォング先生の作風を見て、リーは焦ってもっと新鮮な映画を作らねばとしてあの名作を作ったのだそうです。
さて、ここで話をジャッキーに戻しますと、私たちが散々見た80年代のジャッキー映画、ほとんどは厳密にはカンフー映画ではありません。
たまたま個人的にカンフーが得意な警官や弁護士や冒険家が活躍するだけで、功夫とは何か、という話ではないし武林も舞台になってはいない。
となると、実は彼が発明した新功夫映画というジャンルは、主に初期の拳シリーズや師弟出馬という数作のみとなります。
その前は彼も古典的な武侠映画の古装をやっていました。
映画文脈を大きく変えたのは実は数作。
そのインパクトがあまりに強かったがために、以後の作品も彼が出ていればみんなカンフー映画だと錯覚されるようになってしまった。
実際は人情ものの泥棒映画だったり探検映画だったりするのに。
この辺りがぼかされてしまうからこそ、前の記事で書いたようにカンフー映画と銃器の関係において誤解が生じてしまう。