工業化社会の発生によって、それまでの地に根付いて生きていた人たちが安定した生活をすることになり、その労働と同じく人間もまた平均化されていった、というところまでを前回は書きました。
このため、オルテガは大衆のことを平均人と呼びました。
また、彼は平均人を「根無し草」と呼びました。
つまり、本来のあるがままの世界に根差していない人々であるということです。
彼らがどこに生きているかというと、人の中です。
自分の足で地を踏み、自分の力で立ち、自分の意思で天を仰ぐということをせず、まるで満員電車の中にいるようにぎゅうぎゅうづめに集まって互いに重心を掛け合った結果のバランスによって一塊の物として存在しています。
その状態で暮らしているため、地に足が着いていないので地に根を張ることが出来ない根無し草だと言うのです。
地に根を張ることが出来なければ、芯を立てることが出来ません。
彼らは電車が揺れるように周りが動くと、その力のままに流されて生きることになります。
これがオルテガの言う大衆です。
このような人々の暮らしを、オルテガは「超民主主義」と表現しています。
つまり、多数決だけが優先されている世の中です。
そこではひたすらに個はおろそかにされます。
地に足が着いておらず、芯がなく、ただ周りに流されて生きているだけの人達なのですから、私もまたそういった人たちの個などはおろそかにします。
そのような人たちの民意による民主主義などは、まったく真実と乖離している気がして仕方がありません。
だからこそ彼はこれを超民主主義と言ったのでしょう。
つまりは衆愚制です。
それまでの大衆化していない「庶民」は自分で仕事をして自分で暮らさないとならなかったので、誰かが言ってるからそうするとかいうことで行動はしません。
自分に返ってくるので、自分が食べてゆくためには自分の覚悟と責任を必然自分で持たないといけない。
超民主主義ではそのために、覚悟と責任と言う物は存在しなくなります。
よって、覚悟と責任をもって特殊な能力に長けた人の根拠のある見解よりも、多数決が優先されるという倒錯が発生します。
大衆は世界一のエキスパートが言う真実よりも、まわりの「みんな」が思ってることの方に信ぴょう性を置くのです。
そして、大衆はそのような自分の能力を持った人々「個」を弾圧します。
これが現代の反知性主義者がデマ、フェイクニュースが大好きな理由です。
現実よりも自分が同じ群れに所属していると感じている大衆仲間の唱える陰謀論を選択するのです。
そして、彼らの存在そのものが群れることになって成り立っているために、布教するかのようにその群れとしての価値観を必死で拡張してゆこうとします。
オルテガはそのような人々のことをまた「愛国者」とも言います。
まさに、いまの状態を見て取ったかのようではありませんか。
つづく