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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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一体何から目を覚ますのか

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 ここのところ、目を覚ませ目を覚ませというようなことばかり書いているような気がしますが、これはもちろん、私が少林拳の師父ですので少林寺が総本山である禅、ひいてはそれをさかのぼったところにいらっしゃるお釈迦様の言葉からの受けうりでございます。

 しかし、そんな古代社会の教えを引き合いにだして、現代人の我々に具体的に何から目を覚ませと言っているのか、と思われる人もいたかもしれません。

 今回はそのあたりについてお話いたしましょう。

 昔から教育の現場では、定期的にナチスのファシズム構造を模倣する体験授業というのが行われては物議を醸しだしています。

 日本でもこのエクストリームな取り組みをしている大学教授の方がおりまして、ラジオで話をされておりました。

 この方の授業ではやはり、ハイルという言を取り込んだ独自の挨拶を用い、そろいの制服を着こみ、メンバーのみが行う儀式のパフォーマンスを行うというこの手の試みとしては定番のことをしているそうです。

 そこから入って後、この方は実験参加者の生徒に、喫煙所以外でタバコを吸っている人に対する取り締まりをさせたのだと言います。

 そういった違反者を見つけると「タバコ辞めろ!」などと恫喝をしたそうです。

 そこから始めてついにはカップルを見つけると「リア充爆発しろ!」などという言いがかりにスライドさせてゆくと、彼らはごく自然にそれを、誇りをもって行うようになったと言います。

 さすがに大学教授は、この実験には事情を含めたカップルを仕込みで関与させていたと言いますが、このような明らかに倫理的に問題がある行為に、生徒たちは自然に流れて行ったようです。

 中には、関係ない他の生徒がお調子に乗って参加して来たりすると「自分たちは本気でやっているのだからお前たちが入ってくるんじゃない」という特権意識を土台にした怒りにかられた実験参加生徒も居たと言います。

 このように、初めは正しいことをさせ、かっこいいファッションや恥ずかしいことをさせて団結意識を作り、そして冗談めいた入り口を作って少しづつ心の囲いを取ってゆくと、人は簡単にこのようなファシズム行為に耽溺してゆくということでした。

 参加生徒たちは「集団化することの力の強さに恐怖を感じた」「ファシズムの魅力に取り込まれた」などという感想をレポートに書いてきたそうですが、この体験を通して「如何にしてファシズムに陥らないようにするか」という答えを得た物はなかったのだそうです。

 そこにも立証されかねないような過激なこの実験に対して、やはりSNSを始め各方面から多くの意見の投書があったと言います。

 そういった当初の意見の多くは二つに分かれたそうで、一つは「それは普段、小学校から高校で行っている授業や企業研修とどこが違うのか」という物。

 それからもう一つは「そんな危険なことをするとファシズムに目覚める者がいるのではないか」ということだったという物。

 ここでもやはり、実験の結果「こうすれば人はファシズムに陥ることはない」という答えについては触れられていません。

 行った側もそれを知った側も、対策については一切触れていない。

 これはつまり、どの意見もみな、暗にすでにファシズムは低調として世に満ちていると言うことを前提にしているのではありますまいか。

 上の意見にあったように、ナチスを模したファシズム体験は、とどのつまり小学校から行われてきた教育や企業研修と、ほぼほぼ同一の物に過ぎないように私にも思われます。

 ここで記事の頭に書いた疑問に向かいます。

 すなわち、目を覚ませと言うのはそのようにして社会に満ちているファシズムの洗脳からだということです。

 我々はすでに、この国で育ってこの国の教育を受けてこの国の常識で運営されている労働に参加している。

 それはつまり、国が既定路線として行っているファシズム路線の下で人生を送っているということです。

 我々全員が、ファシストになるべく設定された教育を受け、その後も常識という洗脳を受け続けている。

 みんなと同じという物差しで生きる、オルテガ先生言うところの「平均人」=大衆であるということは、そのような人間として生きるということです。

 目を覚ますには、自分自身で学びその結果を自分に向けると言う自浄作用に寄るほかはありません。

 伝統思想の行を経てきて、私が発信し続けているのはそういうことです。

 実験を行った教授が曰く、ファシズム体験を経て分かったのは、参加者たちが行動を反復することで責任が希釈され、喪失してゆくということだそうです。

 みんながやっているから、言われてやっていることだから、と個としての認識が消えて個としての責任意識がなくなってゆくのだと言うのです。

 今現在、世界的な危機の真っただ中に居り、深刻な医療崩壊を目前にしているというのに、自制して自主的に鎮静化に取り組んでいる人がどれだけいるでしょうか。

 遊び歩いている人々が沢山目に付きませんか?

 これがつまり、オルテガ先生の言う「大衆の反乱」的なことなのではないでしょうか。

 制御を失った大衆は識者の警告もちょっと考えれば分かりそうなことも無視して、みんながしているからと無責任に暴走してゆきます。

 その拠り所のみんなはもちろん、何があっても責任は取ってくれません。

 無責任で繋がっている絆なのですから。

 そう。

 311の地震以降流行した「絆」という言葉が、反面このような大衆性を担っている物だと言う意見も聴きました。

「絆」の外に居る少数者を仮想敵視し、排除するというのがファシズムの構造です。

 これが現代人とその社会における、深刻な危機であると言うことがお分かりいただけますでしょうか。

 人間の質そのものが、最大の脅威となっているのです。

 私はそのことを憂い、こうして日々批判を発し続けています。

 それと同時に、より強く思うことは、他人と一緒の生を送るよりも、自分自身に目を覚まして自分自身の生を送る方が納得できるし面白い、ということです。

 私がここから発信し、そして集まってくれた皆さんにお送りしていることの本質は、本来そのような物であります。

 皆さん、目を覚ました方が絶対面白いよ。


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