昔、友達の車に乗って夜走りをしていた時に、興味深い話を聴きました。
地元からさほど離れておらず、たいして複雑でもないところにあるラーメン屋さんに行った時のことなのですが、私がいくらナビをしても彼はまった話が通じない。
これは珍しいくらいの方向音痴だなと思っていたら、彼が言うには実は元々道マニアだと言われるほど抜け道に詳しかったのだと言います。
しかし、ある時カーナビを導入してから、まったく道が分からなくなってしまったとのこと。
「あぁ、あると覚えなくなるだろうね」」
と思ったのですが、そうではないとのこと。
カーナビを使うのが当たり前になると、それまで頭の中にあった道の繋がりみたいな物がどんどん消えてゆくのだと言うのです。
結果、どこで何がどうなっているのかが全く分からなくなってしまったそうで。
この話をどうして思い出したかと言うと、最近このことが科学的にあるのだというレポートが出たからです。
それは、カーナビを使うと前頭葉が退化するというデータが取れたと言う物でした。
前頭葉は、空間認識をする器官だと言います。
それがカーナビを頼ることでかなり短期間に退化するそうです。
我々アジアの身体哲学では、識、すなわち認識能力を上げることが目的とされています。
腕立て伏せや練拳、兵器の操法、各種の超人的身体能力の開発はそのための手段です。
これはつまり、人格の向上と脳の進化です。
それと逆行する、科学技術による脳のスポイル……。
我々が見ている景色は、実際に我々の目が見ている景色とは違います。
眼球のレンズの構造上、見た物は上下逆さに映っているそうです。
また、視覚は二次元でしか画像を認識できないので、例えるならば私たちの目自体は写真のように平たく世界を捉えています。
ついでに言うと、光の反射による色の認識も違います。
それを統合して一つのつじつまの合った物として認識させているのが脳です。
なので、脳の認識能力が劣ったりおかしくなってしまったりするとまったく現実を認識できなくなってしまう。
だから世界の本当を知り、学ぶためには識の向上が必要なのです。
逆に言えば、識が低い人、また低くなり続けている人はどんどん本当のことから遠ざかってゆく。
自分が見たい物、自分が楽な物だけを妄信して生きて行くことになります。
これを迷妄と言います。
ある大学の先生は「ちゃんと物を知って自分の頭で考えて生きるのはコスパが悪い」と言っていました。
確かに、搾取も抑圧も含めて政治に身を任せて社会に任せて生きるのは、いわゆる先進国においては楽な生き方です。
自分自身の判断や能力が無くても生きていけます。
だから、平均人という概念が出てくるのでしょう。
平均人とは大衆のことです。
代わりの利く、量産された部品としての人間。
部品なのだからコスパは良いでしょう。
コスパは良いですが、本当の本物の自分一人だけの貴重な人生と言う物にはならないでしょうね。量産された平均ですから。
自分自身で自分の人生を生きるには、コスパは悪いですが逐一手間をかけて全部自分で生きてゆかないと。
三段論法になりますが、平均人の脳は相対的に委縮しているとも言えますまいか。
見ていて「あぁ、この人の脳みそ委縮してるなあ」と思うような人って、ことあるごとにスマフォを頼っています。
もちろん、スマフォも使う、というのは害があるとは思いません。
でも、自分の内側と外側の繋がりのメインがスマフォだったら?
やっぱり脳が委縮すると思いますよ。
前頭葉は、第三の目、チャクラがある場所だと我々の学門では昔からみなされていました。
気功では印堂と言います。
脳の活性化をさせる重要な穴処とされています。
脳死という物があるように、脳の停止は命の停止とみなされることがあります。
あまり頭を粗末にしない方が良いかと思われますよ。