老師が、八極拳を教えてくれました。
その中の要素の一つだけではあるのですが、その用勁が非常に面白かった。
そして、これこそまさにその部分の理解がないとまったく態を成さない武術ではないかと思われます。
習ったそのままの形で使おうとすると、まるで役に立たない。
学び方と使い方は分けないといけません。
心意がまったく同じでした。
構造が実に似ています。
体の使い方を学ぶためにはこれらのように細分化して精密にやらないとおそらくは正しく学べません。
というか、それを学ぶためにやるのでしょうから。
ですので、形式だけ教えられてその部分について伝えられないとだいぶん悲しいことになると想像されます。
そして、おそらくはそれがほとんどなのではないでしょうか……。
八極拳には外形は潭腿の物がそのまま用いられているという話がありますし、少林寺に伝わっている金剛拳という物が取り入れられて母拳になったという話もあります。
心意には要勁の練功法であって使うときには他の武術の中に入れて行うという話があります。
私見としては、その中身そのものも又、この二つは繋がっているのではないかという感じがしています。
ただ、八極拳は開合があるのですよね。
それは私が体得していない物です。
心意には六合という言葉があるように、会合せずに全て合にしたまま行われるという特徴があります。
暗の勁であるという部分です。
なので、私が真似した八極拳は中身は心意で練功としてその様式を借りているだけの物になります。
これは邪道だ。純功夫ではない。たぶん。
しかし、この経験をしたことで見識が広がって世界がまたより面白くなりました。
本当の純八極拳は出来ないにしても、老師から教わった物としてこれを連功してゆくことで、私の功はより強くなるでしょう。
その徳があることが大切です。
重要なのは功だからです。
功が無ければ、形をなぞるだけの死んだ武術になってしまう。
八極拳や心意拳は特に功を練るための物だと書きましたが、逆に五祖拳は見た目と戦闘理論が一見分かったように思えやすくて、そのままでも使えてしまいそうな感じです。
立ち方も普通だし、片手で相手を掴んで殴ると言う動きも普通。
そのため、見た目だけを真似して出来たような気になりやすいという罠があるようにも思います。
五祖拳が流れて空手になったという話は、非常になっとくが行く物です。