神は死んだ。
と、最近私が見直したニーチェ君は言いました。
そして21世紀、神は観測されました。
科学的に、その存在が確認されました。
ニーチェ君。
では、どのような形で観測されたのか。
宜しければお付き合いくださって一度考えてみてください。
何かが目の前に現れて自分は神だと自称した。
それは科学的に神だと言うことにはなりません。
神の予言が達成された。
その予言が神によってなされたという証拠がない。
誰かが見た。
見た物が存在するとは限らない。
小泉八雲が集めた日本の伝説の中で私が最も好きなのは、常識と題された物です。
ある山の中に村に猟師が迷い込むと、そこでは何かの儀式をしている。
なんの儀式かというと、この村には定期的に仏様がやってきて毎回村人を一人、極楽に連れて行って下さるのだと言う。
ありがたいからお前も観なさいと言われて参加した猟師が待っていると、やがて極彩の光が降り注いで紫雲に乗った仏様たちがやってきて村人の一人の手を引いた。
すると猟師はその仏にめがけて銃を放った。
するとこの世ならぬ雄たけびが響き、光も仏も消え去った。
なんということをするのかと詰め寄る村人に対して「仏が銃で死ぬことはない」猟師は言い放ち、地に点々と血痕が残っているのを探し出した。
村人と共にそれを辿ってゆくと、その先では撃たれたタヌキが死んでいた。
タヌキの巣には、いままで連れてゆかれた村人たちの白骨があった。
これは歳経たタヌキが人を化かして食らったのであろうと言うことであったが、それにしてもなぜお前はこの化け物の正体が分かったのだと訊かれた猟師は「命を取って暮らしている俺のような物に御仏の姿が見られる訳がない。常識だ」と答えたと言う。
これは「鬼に会っては鬼を殺し、仏に会っては仏を殺す」という禅の法話から派生した物語かもしれません。
行を求める者にとっては、己の心が見出した絶望も希望も、どちらも執着なので切り捨てよという教えでしょう。
このように、神を見ると言うことは昔から魔境と呼ばれて典型的な欲望からくる狂気の顕れだとされて注意勧告を促されてきました。
しかしなお、この度、神の存在は科学的に観測されたのです。
ではどのようにか、そろそろ明かしましょう。
それは、脳波の観測によってです。
瞑想をしたり、通常活動をしたりしたりと色々な人の色々な状態の脳波を計測した結果、信仰を持っている人が神に祈っている間だけは、他の時にはない脳波状態が観測されたというのです。
私のように、信仰を持たない人間が瞑想をしていてもその状態にはならないということのようです。
つまり、その計測上の現象として、ヒトの脳内に神の存在は立証されました。
他の物を思っているときには出ないのですから、まぎれもなくそれが神の存在を表していると言って差し支えないでしょう。
もちろんその神が何をしてくれるか、物理的な意味があるのかは不明です。
ただ、観測されたというだけです。
そして、東洋の身体哲学、行においては、心中に神を観想することは重要な行だとしています。
神の似姿を描くことは道を誤らせるとしたキリスト教やイスラム教とは違う考え方です。
ですので、東洋の信仰では似姿を祀って観想の手助けとします。
インド・ネパール系のカレー屋さん、いわゆるインネパ系のお店に沢山飾ってある神様たちの絵はそのための物です。
ではその観想、どのように行に用いるのかというお話は次回にいたしましょう。
つづく