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もう一つの倭刀史 一・小笠原源信斎

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 倭刀がどのように発展して、いまに至っているのかというお話はこれまで何度か書いてきました。

 しかし、それは中国武術の中でであって、日本ではどうなったのか、ということはほぼ書いてきませんでした。

 今回はそちらに目を向けたいと思います。

 倭寇の折に中国に伝わった日本剣術、それはその刀術を学んだ武術家と新陰流の伝書によって倭刀術として中国武術化しました。

 これは日本→中国のルートですが、実は逆輸入とも言えるルートもあるのです。

 それが、以前も少しだけ触れた小笠原源信斎のルートです。

 この人は室町末期の人で、発展気に合った新陰流の奥山派を学び、豊臣滅亡後に明に渡ります。

 上にも書いた嘉靖の大倭寇からまだそれほど時代が経っていない頃ですから、シナ海の海賊海域におけるこの武術文化はまだまだ盛んな頃でしょう。

 明土において源信斎は現地の武術家に本場の倭寇陰流剣術を伝える一方、張良の子孫だという武術家から教えを受けます。

 教わったのは矛の術だと言うから、いわば張家矛術でしょう。

 しかし、以前にも書いた通り、中国武術における刀術とは、棍術や槍術とある種同根、一体となっている部分があります。

 倭寇対策の時代に少林寺にもたらされた棍法のマニュアルの名前は「剣術」と書いてあります。

 使われるのは剣ではなくて棍なのですが、やっていることは剣術なのだ、ということでしょう。

 この辺り、剣も刀も同一視している日本武術でも同じことが起きているとも言えるかもしれません。

 また、矛というのは何かと辞書を引くと、棒の先に剣を付けた武器だとあります。

 それは槍ではないかと感じるのが一般的なのですが、まさに槍というのも狭義の言葉であって、大きく言えばこの辺りも同じなのでしょう。

 日本でも、鎌倉時代まで主用平気であった薙刀は長刀とも書きますね。

 つまり、細かく言うなら柄と刃のバランスが違うだけで大要としては変わらないとくくるのですね。

 この張家矛を学んだ源信斎は日本に帰るのですが、江戸期の日本では武士は両刀の帯刀が義務付けられる一方、弓や槍の携帯は取り締まりの対象となっています。

 こうして江戸時代の「刀は武士の魂」という剣術ブームの土台が形成されて、長刀使いがその要領で長い竹刀を持っただけの大石新陰流のような屁理屈トンチ流儀まで生まれてくるのですが、源信斎はそのような平時の竹刀侍ではありません、本気の戦国武士です。

 それが本気の中国武術を自分の剣術に落とし込んで当時無敵を誇るようになります。

 その操刀の方が、八寸の延金と言われる物なのですがこれ、中国に伝わっている物としては苗刀の中に含まれています。

 老師から教わったところによると、用は刀の棍、槍的用法です。

 剣道のように決まった持ち方で固定するのではなく、両手でくるくる持ち替えて使います。

 決して特殊な隠し技ではなくて、三回に一回くらいは左手で刀の峰を持って持ち替えて扱うのが倭刀の特徴なのですが、やはり当時の日本の剣術の常識からすると、不意打ちを食らうところがあったのではないでしょうか。

 確かにそうやって持ち換えて使えば、八寸は金が延びてくるように感じたかもしれません。

 一歩間違えれば単なる目くらましの手品まがいに堕してしまいかねない用法です。

 そこが次回の要点となります。

 

                                                                       つづく


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