うちの伝系について大きな発見があったことで、ここのところその文脈への関心が高まっております。
しかし、調べるにつけ分かってきたのは、多くの武術が明治~大戦後において失伝、改変、復元と言った経緯をたどっており、それ以前の状態が分からなくなっているということでした。
中国武術と類似性の強いと言われている日本武術にしても、つてがあるので研究したいと思ったのですが、どうも大幅な改変が加わったのは20世紀以降で、その後もちょこちょこ改変が加えられ続けていて、実像を確定することはどうも難しいようです。
また、最古の日本武術だと言われている派にしても、武道学会の研究では改変が著しく、原型をたどることは難しいとのことです。
これはある意味で当然のことです。
日本武術のように封建社会での実用をまず第一に考えた場合、時代の変遷とともに戦術や戦法は変わってゆくので、随時最新兵器としてアップデートがされていかないと用をなしません。
おなじことは世界中で起きていて、北半球を巻き込んだ世界大戦が起きたときに、各国の武術の多くが変わったそうです。
初めから伝統の物として遺そうという姿勢が無ければ、当然そうするでしょう。なにせ命がかかっています。
裏返って、この辺りはたまたま、宗門の行だった少林拳や、神事であった大相撲、興行スポーツであった英国式ボクシングなどが比較的原型をとどめた理由にもなります。
おそらく、今後もこの、伝統と時流派の二極化は進んでゆくでしょう。
総合格闘技が当たり前になり、それらが武術の要素を取り入れて護身術、喧嘩術化してゆく流れは盛んになってゆくことかと思います。
また、それらの中から、何回かセミナーに参加したり動画を見たりしただけで自分の会を起こす自己流先生も沢山でてくることかと思います。
いったん、混沌の時代がくるでしょう。
しかし、その後、数十年がたったとき、おそらく多くの自己流先生は年齢に体がついてゆかなくなることかと思います。
伝統武術が重視している、養生の要素や哲学の部分との差異が開いてゆくことかと思います。
これは現代武道に関しても言えることかと思います。
何を選んでもそれぞれの生き方です。
どんな物になろうとしてもいい。
伝統が好きな人間は、なにが欲しいのか、何を望んでいるのかをよく自分に問いかけてから選ぶとよいかと思います。
私は伝統に、美しいライフスタイルを見出しています。