老師が曰くには伝統武術の効果は大きく言うと三つあり、一つには養生、次に身体能力の開発、三つ目には伝統文化の体感だと言います。
この三つの中には、自己愛に浸って悦に入る、という物は含まれておりません。
拡大解釈するなら養生に含まれるかもしれませんが、程度によっては健康的だとも言い難い。
現在、多くの日本人が武術だと言って行っている物には、この自己愛行為によるものが多々含まれているように思います。
この傾向は、70年代の白人社会においてすでに始まっていたようであり、伝統武術を行うというのはエキゾチックな趣味でした。
高い用具や練習場所をしつらえ、迷彩柄や星条旗柄の練習着をまとい、金色や龍の刺繍の帯を巻くのが楽しみであったようです。
そしてお決まりの自己流を編み出すに至ってゆく……。
おそらく、60年代のブルース・リーの摸倣なのでしょうね。
80年代のアメリカ映画「ベスト・キッド(Karate Kid)」ではすでにこの傾向が嘲笑されていて「服は普段着でいいし、帯はズボンが落ちなければそれでいい」と語っていました。
一説にはこれよりさらに古い時代の清朝期には、宮廷で文弱な貴族の子息たちがゆっくりした動きの太極拳をして悦にいっていたのがこのムーヴメントの始まりだとも聴きます。
陳家溝から師匠についてきた太極拳の弟子は、貴族たちがやっているものをみて「いや、我々がやってるのと全然違うのですがなんですかあれは?」と師匠に尋ねたところ、師匠は「あれは貴族向けだ」と答えたと言います。
接待武術ですね。
貴族たちは自分たちが珍しい武術を趣味にしている風雅な身分だと大いに満足していたと言います。
この、アンヨが上手的なよろよろ太極拳が後に、養生法として高齢者を主体に大いに繁栄した訳ですが、やはりここでも本当にただ健康のために動きやすい服装でやるご老人たちと、趣味性を重視してお高そうなお召し物をまとってわざわざ公園にラジカセを持ち込んで中国音楽を掛けながら練習をされているお年寄りとは分かれるようですね。
この、用具や装いにお金をかけるという趣味性はモチベーションの維持に繋がるようです。
私は練習用具など練習が出来ればなんでもいいと思って生徒さんたちにはホームセンターでの調達法を伝えるのですが、まぁほぼみなさん、そんなのは嫌だとお高い道具を通販で購入されます。
師父にこの傾向をお話したことがあったのですが「中国武術の世界にはそういう人が沢山いますよ。卑しい物ですよ。なんのために武術をやっているんだ」とほほ笑んでいらっしゃいました。
おそらく、こういった人たちにとっては日常生活で削り取られがちな自己愛の補充が必要だ、ということなのではないでしょうか。
そのために、自分を粉飾して祭り上げる必要がどこかにあるのではありますまいか。
孔子様が曰く「飼われている虎が逃げたら虎を殺し、箱の中の玉が割れたら箱を切る。それが一体何になろうか。大切なのはその原因の解決なのではあるまいか」。
やはり生きづらい社会の病弊を改善するべきでしょう。
ある引退した野球選手が語っていたのですが、彼の親友だった選手は引退後にピッチング・コーチをしていたのですが、していたのですが、内臓の癌で亡くなったのだそうです。
前から下血が続いていたのですが、痔だと思って発見が遅れて手遅れになったのだと言います。
野球選手と言うのは肩を消耗させながらピッチングをするので、ピッチング・コーチなどになるとボルタレンと言う鎮痛剤を使いながら仕事を続けてゆくのだそうなのですね。
そのために、本来なら感じたはずの痛みに気付かなくて手遅れになったのだと言います。
亡くなった方の奥様は、お葬式で涙ながらに、ボルタレンを使わないで下さいとスピーチされたそうです。
私が、オタクにオカルト、スピリチュアルを否定するのはこの致命性があるからです。
痛みをごまかして根本の問題を解決しない限り、必ずどこかで手遅れが来ます。
これらが現在の勢いを獲得し始めた90年代から、日本ではメンヘラブームというような物が起きてきたようには思い当たりませんか?
オタクにオカルト、スピリチュアルな人達、メンタルがヘラな人が多いとは思われないでしょうか。
ひきこもりという物が社会で可視化されたのも同時代です。