私にとって自覚と言う物を促してくれた経験の一つが、子供の頃に教わった楽器の練習です。
音大出身であろう先生が「ハハハハハ~」と音階を教えてくれるのですが、これがまったく理解が出来ません。
どっちの音が高くてどっちの音が低いですか? とピアノを鳴らしてくれても、上も下もまったく感じられない。
これはさては自分の能力には得られない物なのだな、と思ったのですが、目に見えない物だからメモを取ってバックアップが出来ないのでどうやって身に着ければいいのかもわからない。
感覚、と言われるのですがその感覚が無いのだから手に負えません。
音痴というのはそういう身体特性です。
この、自分と他人の能力の差異と言う物に早いうちで気が付けたのは良いことだと思います。
ある人は生まれつき足が速くても、だからと言って短距離走などはその後長期間訓練を積んでも何秒も記録が縮まるような物ではありません。
熱心な野球少年が高校野球まで進むか、あるいは小学生で肩を壊してしまうかもまた生まれ持った体質の要素が大きい物でしょう。
音楽に話を戻しますと、本当に音感が優れている人からすると、実はドレミというのは違和感がある物なのだそうです。
というのも、ドから次のドまでの1オクターブというのは、ごまかしがあるのです。
1オクターブを、8つの音で割っているのですが、実はこれ、ぴったりそれでは割り切れない。
その割り切れない誤差をなんとなくあまりでごまかしているのだそうです。
ピタゴラスはこの問題について考え続けました。
この余りが無いのは、インド音楽なのだそうです。
あの、シタールの音を聴くとビヨンビヨンした響きを感じると思うのですが、これはドとレの間にそれだけ細かい音階が設置されているから、人間の耳にはその微妙な段階の変化がビヨンビヨンした響きとして聞こえるのだと言います。
このように、みんなが便宜上設定して当たり前だとしていることには、実は誤魔化しがあったりします。
そのように、通念として設定した物のことを「常識」と言いますが、これの反対にある言葉がなんだかわかりますか?
それは、学問なのだと言います。
世の中で一応便利だからと設定されている常識に対して、現実を認識するというのが学問です。
常識と言うのは、時代や地域によって大きく変わる物です。
ある時代のある場所では、白人種は黒人種より偉くて、女性には参政権も投票権もない。
別の環境では、そういった「常識」は間違っているから解体しようと言う運動が起きる。
常識と言うのはあくまで一過性で便宜上の物、いわば社会や共同体の管理のための物であって、真実とは関係がありません。
それに対して、普遍的なことと言う物があります。
例えば、世界中のどこであっても必ず重力と言う物が働いているなどと言うことです。
このような真実や現実を追求することを「学問」と言います。
お釈迦様はこのことを水面と水中に例えたとされています。
水面は常に揺らいでいて、その下にある物を歪めて見せたり、うごめかせて見せたりします。
水中にある物をありのままに見せることはありません。
この水面のある常識を通して、水面下の真実を見通す力が識であり、そのために用いられる物が学問です。
私は、自分のやっている武術や気功という身体哲学文化を「学問」とよく呼称しますが、それにはこのような背景があるわけです。
表面だけに捉われて、その中にある物を識ろうとしなければ、本当のことは分かりません。