カンフーの源流であるとして、ここでもずっとヨガの理論について取り上げてきました。
特にその中で、下半身に宿る性的エネルギーを脳に上昇させるという大枠に関してはまったく同じだと書いてきました。
また、ヨガで言うバンダという体の使い方は、中国武術の勁のことであろうと認識してきました。
しかし、例の阿闍梨にお勧めされたヨガの本によると、バンダとは体の三か所、下腹部と喉、頭に限定された物であるようです。
だとするとこれは狭義では勁とは違いが出ます。
勁は全身に用いられており、気功の理論に基づいてそのつなぎ方を選択できます。
そのために各派の拳によって勁のルートには差異があります。
蔡李佛と五祖拳、通臂拳ではそれぞれ違います。
同じく勁を用いていても使い方がまったく違う。
その勁を使った威力の出し方で「発勁」となるのですが、これ中国では「発力」と呼ばれることが多いようです。
ここに書いてきた勁の理論からすると、勁を用いた発力、と解釈して、後者の方がしっくりくる気がしてきました。
この辺りのことが日本ではあまり良く咀嚼されていない気がします。
勁を用いずに、ただの拙力のまま発力法だけ行おうとして単なる技になってしまっている人が多々居るようです。
そうなると、やり方の形が問題になったりとか、その時にどこの動きがどうなっているなどと言う外形のことが議題に上がりがちのようですが、実際にはそれは勁には関係ない。
得勁することをして「骨肉分離」と私はいつも書いてきていますが、そう、勁は骨格の運動とは別です。
体の中で勁を動力として用いているかどうかが問題であって、外形は関係が無い。
だからこそ、私が学んでた蔡李佛と学んでいる五祖拳、通臂拳でそれぞれ外形がまったく違っているし、発勁の方法もまったく違っていますが、それらすべてが発勁だと言える訳です。
やり方がどうというのではなく、まずは本質として勁を用いているかが大前提です。
そして、勁を用いれば外形は関係ない。
どんな形ででも打てます。
私の功夫ではまだ限られますが、椅子や地べたにお尻を着いて座った状態で打てるという先生も居ます。
また、逆に本門の勁を隠し持っていて、看板にしている拳法を演じて形だけはそれでありながら中身は別の拳で打っている、ということも良く聴くことです。
それを前提とした上で言うのですが、形式は違っても下から上にというヨガの性エネルギーと同じ方向のエネルギーの活用は中国武術でもおそらくはかなり普遍的な物だと思われます。
これは基本的には背中側にある督脈と、おなか側にある任脈を経路として用いられます。
蔡李佛ではこの両者を常に同時に働かせて整勁を作り、身体を勁の満ちた球として用いる。
五祖拳ではおそらく、いまの私の解釈では上げる時と下げる時で開合を行い、それぞれの脈で下に向かうルートを活用して整勁としているものだと思われます。
通臂拳ではと言うと、実は今日気が付いたのですが、このルートの使い方に実に独特な物があるのではないかと思い至りました。
通臂の勁を鞭勁と言い、その拳の特徴に腕は鷹の羽のように、身体は蛇の身のように使うという拳諺があるようなのですが、蔡李佛でも初歩の段階で実に重要な練功として行うと築基功の要素を用いて身を揺動させると、これが実に興味深い発勁となります。
本当に、蛇のように身をくねらせるのですが、決してただ身体を振り回す力でぶつとかそういうことではありません。
勁でそれを行い、定力を下に突きさして陰の気とも言える地面の力を持ちいて威力を引き出します。
どうしてこれが強い威力となると言えるかと言うと、この門では基礎練功において拍打で自分で自分を打つと言うことが重要になっているからです。
上述のやり方を用いたとき、ふいに出た重い力に自分で思わず声が出てしまいました。
自分で自分を打っているのですから、内部に浸透するその威力は自覚できます。
うっかりすると脳へのダメージがありかねない危険な威力がありました。
これは、蔡李佛で言う重勁の威力です。
それが十全に発揮されて危険な重い威力を出しています。
この、力積と言う共通点が、それぞれやり方は違えど中国武術の発勁には通底しているように思っています。