ある、芸能人カップルが離婚したと言うことに関するニュースで、興味深い物がありました。
奥様が病気に倒れられて、障害を得ることになったのですが、介護をしていた旦那さんが離婚を受容する結果となったのでどうも世間からかなり批判があったようです。
私は普段、そのようなゴシップには興味もないし、そもそもてれびを観ないので芸能ニュース自体に触れることが少ない。
しかしなぜそれに興味を持ったのかと言うと、これが障碍者認定を受けているライター当人による、保健関係の視点からの記事だった
からです。
このライターの方自身、障碍を持っている当事者の視点から「障碍者と共に暮らすことはそんなに簡単なことでもきれいごとでもない」ということを書いています。
この方の視点では、四肢や感覚の問題と言う物理的な障害ではなく、それらの障害を持つ人たちが時にその原因となった出来事によって持ちがちな人格面での障害についてこそが本当にきついのだ、とのことでした。
事故や脳卒中などで障害を得ると、その出来事によって、脳に障害が残ることが普通にあるのだそうです。
そうなると、人格に障害が起きえます。
これが極めて良く起きることらしく、決して瀕死の大ごとなどに限ったことではないと書かれていました。
インフルエンザでさえ、このようなことは起きるのだと言うのです。
そのような人格障害の内、典型的なのは易激性の症状だと言います。
これは容易に感情的になる、激昂するという症状で、これが本当に問題なのだと言います。
愛情だけを担保に懇切介護をしている人に対して、被介護者が突然、毛布の畳み方が違う、紅茶の温度が違うと言ったようなことで激怒しはじめる。
そしてそれは、そもそもがその直接の因果は言いがかりな引き金であり、本質的には当事者の脳が勝手に問題を起こしているだけなので、対処のしようが存在しない。
ひとしきり発作が収まるまで、暴れさせて罵らせておくしかないというのです。
まぁ、現実世界に存在していないことで怒っているので現実世界では直接対応のしようがありません。
そして、当事者の視点で言うにはこれは本人が物凄く辛いのだというのです。
引き金はあるのですが実態が無い怒りに囚われて暴走してしまっているから、自分でも止められない。
しかし自分がやっていることなので、その支払いは自分に返ってきます。
自分で自分が嫌になる。
けれども、そう自分で治すことも出来ない。
なぜならこれは障害だから。
私の周りには発達障害の友人や恋人が当たり前に居たということは書いてきました。
そして、発達障害に関してはまったく気にしないけれども、そこから人格障害に至ったらもう相手にしないとも書いてきました。
ここで書かれているのは、障碍者当人からのこの出来事への言及ではありませんか。
このライターの方の記事は、社会へと方向性が向かいます。
このようなことは、極めて当たり前に起きていることだと。
私も大いに頷きます。いままで沢山見てきました。
施術家の視点から言うなら、多くの場合人格障害の患者さんに関しては、ジャングルジムから落ちたことがあるかなどの物理的な側面からの質問をまずします。
そのような事故や幼少時の高熱など、珍しくもない。
覚えてなくても、完全に無かったと言える人などきっと居はしないでしょう。その場で一泣きして翌日は忘れるような子供の日常です。
けれども、このようなことが生涯に渡って人格を障害させる一因となるのです。
そのようなことを、無かったことのように扱う社会への糾弾をこのライターの方はされていました。
たまたま、このライターの方は診断が下っていました。
しかし、世の中には沢山の、容易に激昂する易激性の高い人たちがいます。
それ、全部人格障害者であることを前提に扱うことが本来の社会の公正さや福祉の行き届き方ではあるのではないかと訴えるのです。
ちび、でぶ、甲状腺の病気、ホントに多くの人が容易くその人格障害になりえます。
そのことを存在しない物として無視するのではなく、より直視して認めてゆくことがこれからの社会における課題なのではないか。
特に、SDG’Sという目標に向かうエシカルな社会としては、これは非常に重要な課題であるように思います。
町中で大騒ぎをしている老人たち、職場の威圧的な上司、近所の陰湿な奥さんなど、みんなフィジカルな問題から見直してゆけば、改善と救済がありえるはずです。
私の大師は、人々が感情の不法投棄をしていることが社会を悪化させているという問題意識を説いてくださっています。
それに対して、気功の理論に基づいた瞑想や施術が改善をしえると言う立場から、私たちに伝統中国思想からくる療法を伝授してくださっています。
このルーツは仏教にあり、行や瞑想、哲学による認知療法などで人は自分の内なる苦しみから解放されうるとされています。
いままで、変な気遣いから理不尽に感情に捉われる人々を見て見ぬふりで来ていますが、まさにそれこそが社会問題だとして取り組まれるべき時代に差し掛かっているという、障碍者当人からの訴えがこの記事には見られるように思いました。
障害のありそうな人は障碍者としてきちんとみなして対応の出来る社会の在り方が、これからの世の中に求められていることでしょう。
エシカル(倫理的)と言う物を世界的な社会の物差しとするということは、そのような側面に支えられるものだと考えます。
それは過酷ではありますが、同時に救済に手の届きやすい世の中の在り方ではありますまいか。
メンヘラだとか言って半笑いでその場しのぎの快楽で沈痛をしていたら、消耗以外には何もありえない。
そしてそのような人々が苦しい生を送る中で生み出された利益は、みんな社会の上部に吸い上げられてゆく。
いいように搾取されっぱなしの反知性主義的な社会のままです。
より良い時代に行った方が良いとは思いませんか?
そのために必要なのは、まずは認識の改善なのではないでしょうか。
私はね、自分自身が社会の底辺を這いずり回ってきて、そこから幸運に導かれながら自覚的に這い上がってきた人間だから、世の中には問題は問題だと直視して、その解消のための手段が手に取りやすい状態にあったほうが、より多くの人が幸せになれる社会だと思っています。
そのためにはまず、問題に対して見て見ぬふりをせず、異常な物は異常だと明確にして、その異常性を分析して対処法をしつらえることが必要なのではないでしょうか。