ちょっと前に、けっけちゃんさんの動画を取り扱いましたが、今回もご紹介したく思います。
【バレエあるある】コンクールでたまにいるエスメラルダの東西踊り方の違い〜急上昇ありがとう〜33 - YouTube
どうも関東のバレリーナよりも、関西のバレリーナのほうが動作もメイクも濃いめだというお得意のネタであるようですが、私はこのサムネイルの画像を見て物凄く共感したんですね。
それは、私が関西出身だからということではありません。
身体能力の向上を 日常にしていると、ついつい誇張していってしまいたくなるということが良く分かったからです。
特に、翻子拳を齧った時などは、ものすごく強調して大げさにやりたくなりました。
せっかく開いた関節やそれを支える肉を使いたくなってしまうのですね。
もし、それと並行してそういった肉体を制御して動きを消す方の武術をしていなければ、どんどん動きは過剰になって行ったことであろうと思います。
そのように肉体の能力と感性を開発することを習慣づけていると、けっけちゃんさんのやっているような、「あるある」が生じてくるような物だと思います。
バレエやヨガをやっている女性は、部屋でリラックスしている時や映画館で二時間映画を観ているときにもストレッチをしてりしてしまう。
あれはおそらく、身体感性そのものが動きたくなってしまうのですね。
それを開放していて、その欲求にしたがうという習慣が付いているというのは、本能的な物だし、本能的な物はライフスタイルそのものに直結していると思われます。
ちゃぶ台で食事している間にもストレッチをして膝の上に顎を乗せたりする人も居ます。
行儀が悪いと言う人もおられるでしょうが、それは置いておいて、食事と言う本能的な行為と自分の身体感性、習慣が一本化しているというのは生き方としてすごく良いのではないかなあという気が私はするのです。
椅子の上でも正座をしてしまう人も居ますが、それよりも身体に良いような気がする。
食事の時だけではなくて、眠っているときにも身体をひねってストレッチをしたりすると言うのも、無意識化で身体が行きたい方向に動けているので非常にこれは、良いのではないかと思うのですね。
本能的な物で言うと、食事、睡眠だけではなくて性行為の時もです。
性交中も、ヨガやバレエをしている人は無意識状態に近づくほどストレッチをしてゆくという印象があります。
あくまで個人経験なのでデータの分母は極めて小さいのですが。
本能的に、身体が気持ちよいと感じる方向に素直に行けると言うのは非常に命の在り方として良いと思うのですね。
これはやはり、タオ的には精がきちんと生きると言う感性に素直に働きかけていることに対して反応しているように思います。
そのような自然の動きを表現した物に、コンテンポラリーダンスがあるのですが、これ、正直私は何個も見ていると飽きます。
一本でも数分で充分。
もうみんな同じだと思ってしまう。
それは、このダンスがテクニックを持ち札としてとっかえひっかえ見せるという物ではなくて、その時の感性で身の動きに任せるような物であるかららしいのですね。
参考動画をこちらにお貼りします。
即興コンテンポラリーダンス with 國本 怜/Improvisation with Ray Kunimoto - YouTube
これを観ると、中国武術を分かっている人は大いに頷くのではないかと思われます。
と言うのも、片足立ち、のけぞり、身のくねりなど、同じ動作の繰り返しなのですが、その感性が身に覚えがあるのではないかと思うからです。
中国武術の、中国国内での最も古いルーツは気功の五禽戯にあると言われます。
これは五種類の動物の動きを模した物だと言いますが、やはり、身をくねらせたり片足立ちになったりということを身体感性のままに行うことで心身を開放し、開発してゆく物だと解釈しています。
自我ではなくて、身体自身の感性が感じていることを率直に動きに顕せる習慣を持つと言うことは、命の在り方としてやはり非常に大きな意味があると思うのです。
昔、私の相方をしてくれていたバーレスク・ダンサーのリタ・ゴールディーさんは元々コンテンポラリーのダンスを勉強していたと言います。
それはやはり、彼女の命の在り方そのものとすごく合っていると思うのですね。
自分として生きることに繋がっているように思う。
そこからの連想ではないのですが、上のコンテンポラリーの動画を観ていて私が感じていたのが「そうだ。乳を出せ」ということでした。
身体感性のままに身体を動かしていると、靴を履いていたり服を着ていたりということが、ひどく不自然に感じてくるのです。
抑圧の殻を脱ぎ捨てるように、衣類を脱ぎ捨てた方が納得が行く。
実際に、バーレスク・ダンサーになったリタ子さんのことも極めて納得が行く気がします。
江戸時代の芝居などを見ていると、刃傷沙汰になったときにもろ肌脱ぎになったりします。
これ、実際に柔術の型の中などにある動きなんですね。
衣類があると引っかかって刃物が刺さるという話や、素肌の方が脂で刃物を弾くなんて話がありますが、ちょっと納得が行き難い。
それよりも、皮膚を出すことで感覚が発揮されると言うことなのではないのかなあという気がします。
私の友達のパリジェンヌに、裸足のココさんと呼ばれている人が居て、いつも裸足で歩いているのですが、これもまた感覚の開放のためでしょう。
キャリステニクサーがやたらと上半身裸になりたがるのも同じくで、決して単に筋肉を見せびらかしているということではないと思います。
身体感性の開放によって運動能力が完全に発揮されるのだと思われます。
私は披露した時や食べすぎて苦しい時などに服を脱ぎたくなります。
そうすると身体能力がより発揮されて、回復や消化が進む気がする。
睡眠時に素肌にシーツが良いと言う人も同じ理由なのではないでしょうか。
また、踊りと裸と言うことで言うなら、我々日本人に最も有名なのはアメノウズメノミコトなのではないでしょうか。
彼女も又、裸になって踊るという女神であり、同時により上位の神々をもてなし、招きだすと言う巫女としての存在を兼ね備えています。
服を脱ぐと言うことは社会化による抑圧から自然の状態への身体感性の意向を意味しています。
そこには東洋的、タオ的な意味での聖性があるのですが、これは西洋でも実はそうなのです。
西洋絵画の内に、なぜか貴族の貴婦人が乳を出しているという不思議な物が時折見られますが、学問的にはこれは聖性の象徴らしいのですね。
西洋社会と言うのは、文明化によって抑圧された社会です。
そうすることが理性的で発展的だと言う、キリスト教的な「自然への支配」を意味している訳ですね。
自然で無いほどに人間的で高等であるという考え方です。
ですので、双子を生んだり、母親自ら子供に乳を与えるなどというのは動物のようで野蛮だなどと言う考え方さえありました。
しかし、貴婦人たちが乳を放り出している絵画が散見されます。
これは、服を纏う=人間的というところからさらに上に一周して、ヒトなのに服を脱いでいる→神ということなのだそうです。
西洋人が自分たちの権威のルーツにしている、ローマの神々というのは乳房をあらわにしています。
そこに回帰して、ヒトなのに乳を出しているというのは神に等しいという表現なのだそうです。
私たちの世代で言うとドラゴン・アッシュのCDのジャケットでおなじみの「民衆を導く自由の女神」というドラクロワの絵で描かれた女神が乳房を出しているのは、そのことによって彼女が実在の存在ではなくて女神、神の意志であるということを表現しているのと言います。
もしあれが、そのほかの人々と同じく服を着ていたなら本当に革命の暴徒の一人にしか見えなかったことでしょう。
アカデミーを受賞した映画「ノマド・ランド」でも、自然に回帰してアースシップに目覚めてゆくヒロインが、森の中で全裸になって川の流れに身をゆだねると言うシーンがあります。
私などはもう文明に毒され切った現代人であるために、そのシーンを観ていて非常に居心地が悪く感じました。
我々現代人は文明化してしまっていて、もはや裸では生存する能力は失ってしまっていますが、本来他の生物と同じく裸でも生きて居られるだけの生命力を宿していたはずです。
その時代の存在への憧憬が、古典の思想の中には織り込まれているのではないでしょうか。