先日、イギリス在住の宇多田ヒカル先生が配信したライヴ動画を、アーカイブで観たんですね。
彼女は間違いなく天才で、いまの世界の救いになっている存在だと私は思っているのですけれども、今回彼女の動画を観て最初に思ったのが、物凄く時間間隔に特徴があるなあ、ということなんですね。
まず、配信自体が遅れて始まる。
始まった後も、物凄くゆっくりなんですよ。
ある程度流れを想定していて、それをこなしてゆくっていうようなところがない。
遅れて始まってからしばらく、遅れちゃったー、あ、眼鏡かけ忘れた、眼鏡これ、というような感じで、どんどん話が進まないまま遅れがずれ込んでいくんですね。
それで最終的に「あれ、これ、一時間で終わっちゃうんだっけ? どうしよ、時間ない」って言って時間切れになるんですよ。
いや、その後、手を尽くしてつづきを配信するんですけど、下調べしておいたり青写真を作っていたりっていう時間間隔で動いていないんですね。
これは、私はすごく良いことだと思う。
私が自分の人生において、すごく忘れ去っている部分だと感じたんですね。
いまの私は、とにかく学問をしてゆくための生活を立て続けることでだいぶゆとりがない。
プライベートとかほとんどありません。
典型的な、非才の人間が必死こいて生きている状態です。
そしてやっていることそのものも、別に自分のいまとか未来に還元していないんですね。
やっているのは、預かった遺産を未来に送るための活動ばかりなんですよ。
近代中国武術の名人の一人に、孫禄堂先生が居ますけど、孫先生の代表著作のタイトルは「拳意述真」です。
この、述真というのは真を述べると読めるのですが、この場合の意味は孔子様からの引用で「述べて作らず」という言葉から来ているのだそうです。
つまり、師から教わったことをそのまま述べて自分で創作したりはしない、という意味です。
拳意という物に対してそのような姿勢で書いた本であるよ、というタイトルですね。
孫師は形意拳、八卦掌、太極拳という本来まったく個別の三流派を学んで一組の物として伝えることにした人です。
これがもし、述真の思想をコンセプトとしていなければ、三つ合わせて一つの〇〇拳としてしまったかもしれない。
でも、孫師はこれを三つの物はみっつのそれぞれ違う物として伝えたんですよね。
ここが大切なところだと思うのです。
いまの日本武術界ではもうアメリカばりに、なんでもかんでも混ぜて創作してねつ造してということが当たり前になっています。
本来のアジアの伝統武術文化からすれば、それは否定されるはずなんですね。
でももうそれは、民主化の副作用でとっくに廃れたスタンスになっています。
ねつ造や創作、自己流の方が合致した社会になっている。
でも、私はそれやってないんですね。
述真した物を、自分が居なくなった後の世界にそのまま送れるようにしています。
いま、ニュー・ノーマル化には不安や細部への不満は沢山ありますけれども、でも大枠としては私は賛成です。
犠牲者は沢山出ると思いますが、よりよい世界に向かっていると思っています。
その、私が居なくなったあとの良い世界に、きちんと伝統的な正しい物が遺っていて欲しいと思っています。
だからいま、こうして発掘しては未来に送る作業に人生の労力と資本をつぎ込んでいるんですね。
これはちょっと、私の頭の中に不思議なイメージを想起させます。
とっくに人類が宇宙に移住した後の地球で、一人残ってガラクタの山を採掘している宇宙飛行士になった自分です。
そうやって、価値ある物を発掘しては軌道エレベーターに送るのです。
その先の星には自分は行きません。