音楽ナタリーというサイトを起こした方が、批評と言う物は大切だと語っていました。
いまの音楽業界と言うのは、ファン向けに太鼓持ちのような記事を書いた方が明らかにうまくゆきます。
昔、あるラップグループのサイトにあった掲示板は、当時のラップ・グループだけにスキルの詳細やヒップホップ史における文脈での書き込みが当然ありました。
そこに、恐らくはJポップ感覚でそこに入ってきた若い女の子らしき人が書き込みました。
「○○(グループ名)サイコー以外になに書けってんだよ。こんなつまんねーとこ初めて来たよ」
あぁ、大衆。
この人にとっては本当に、あらゆるスレッドにひたすら各人が延々と「〇〇サイコー!」と書き連ねているのが良いBBSだったのでしょうか。
それって荒らしじゃない?
でも、こういうことがおそらくは世の多くの反知性主義者が感情的に口から出してしまう言葉なのでしょう。
反知性主義と言うのは、知性を持って何かを理論的に対話できる人間が物事の是非を左右してゆこうと言う制度に対して反対的な立場を取る人たちのことを言います。
これが、ポピュリズムを支えており、その結果、トランプ支持者たちは選挙と言う民主主義を否定して暴力に訴えることになりました。
批評と、批評に対する批評と言う応酬に適応できないと、暴力や罵倒という着地にえてして至ってしまう。
他人が自分には分からないことを理解しているとか、他人が自分の知らないことを知っていると言うことに、なぜか怒りを感じると言う人は多い。
それが反知性主義の始まりなのではないでしょうか。
再びトランプ支持者を引き合いに出しますと、彼らの大好きな人種差別と言うのはまさに自分の知らない皮膚の色、知らない民族に対する「知らない」ということに由来する謎の「怒り」を見ることが出来るように感じます。
知らないなら学べばいいだけなのですが、反知性主義と言うのはそのように知性に依ることを否定するから反知性主義なのです。
最近読んだ小説には「知らないと言うことは仕方がないが、知ろうとしないことは誤りだ」というセリフがありました。
批評という風習を平素から持つことから、そのような泥沼に至る生き方を回避することは可能なのではないでしょうか。
対話への第一歩というのはそこから始まるように思うのです。