昨今の国会中継を聴視していると、現政権の一貫した対話の出来なさに驚かされます。
二択で答えらえるような質問に対しても、回答とまったくずれたベクトルの原稿をただ繰り返し読み上げるだけというような馬鹿っぷりを平気で晒します。
もちろん、世の中には回答する必要が無い質問と質問や二択という物が存在します。
究極の選択のような、どちらか選択した段階で支配に陥ってしまうような質問はあります。
そのような物に対しては回答する必要はありません。
回答を拒否して設問の不適切さに対して言及するべき時というのは確実に存在します。
しかし、会議の場で当事者の行っている方針の詳細に対する質問に、二択で答えられないと言うのは明らかに意図的な物であるのは間違いがない。
だとしたらその意図と言うのはなんでしょう。
一般的に考えれば、二択の質問を何度繰り返されても、同じ回答をひたすら読み上げるというのは頭の悪い行為です。
誠意がないと感じられることも簡単に推測されます。
つまりは民主主義国の為政者としては国民には見せたくない姿な訳です。
そんなことを選択したと言うことは、それはつまり、正直な回答をするということがそんな馬鹿な姿をさらすよりもより損をするという計算をしたからですよね。
自分がしていることについてするべき回答をするよりも、バカで不誠実だと思われた方が良いと言うことの背景には、そもそもこの国の社会に、対話が不可能であることが一定の利を得るという土壌があるのではないでしょうか。
町内や親族を振り返ってみれば、会話が成立しない人って沢山いませんでしょうか?
近所の爺さんや親せきのおばちゃんで、まったく話が出来ない人って、普通にいませんか?
それによってその人たちが日常生活が送れていないかというとそんなことはない。
もっと言うならば、本来意思疎通が可能で機能的にあった方が良いはずの仕事の場でさえ、対話不可能な人というのは沢山いますね。
つまり、血縁関係から地域社会、経済環境から国政の場に至るまで、この国は対話不可能なまま成り立っているんですよ。
これ、会話なんかできなくてもバベルの塔を完成させられるってことですよ。
人間はすごい。
神様の計画を越えました。
ノンバーバルなんて言葉がもてはやされたりもしましたが、まさに最初からこの国に関して言うならばバーバルなんてものは存在して無いに等しかったのですよ。
では、血縁関係や地域社会、経済環境下においてはなぜ言葉がなくても関係性が成立していたのでしょうか。
それって、血縁であることや近所であること、そして経済的な利害関係ですよね。
会話なんか通じなくてもなんでも和するんだと、それが和の国の心なんだと、そういうことを言う人たちが沢山いますね。
でね、いま、血縁、地域、経済環境での「和」について書きましたけど、はい、それって、政治家が権力を維持するための全てじゃないですか?
だから、二世に地元の名士に金持ちばっかりになっちゃうんじゃないですかね?
この国の社会構造そのものが、公から私に至るまで、みんなこれで出来ているんですよ。
この、血縁、地域、経済に働いているノンバーバルに人々を繋ぐ力、これはなんでしょう?
それが「権威」なんではないですか?
年長だからとか、体裁があるからとか、あの人は経済的影響力があるとか、そこに働いているベクトルって「権威」ではないですかね?
いまの世界情勢は、権威VS民主の第二次冷戦に至っていると言います。
権威のベクトルで権威の社会に安寧しているすべての人々が、この権威の軍勢に加担しているのではないでしょうか。
権威という、誰もが身近に感じる、この国の端々にまでいきわたって人心をからめとっている力に対抗しうるのは、民主、自分を相対化し、他人を同等の存在だと見なす理性と公正さです。
権威について知るには、単に日常的に恫喝や威圧をされていれば十分ですが、民主性に関しては後天的に学ばないと体感し、理解することが出来ない。
そしてそれを学ぶと言うことは、自ら行わないと出来ない。