この、権威主義と民主主義の対立の世界情勢の中で、民主国家内における権威主義者たちこそがポピュリズムによって国をむしばんでおり、その病巣は社会構造によってゆがめられた各人の精神にある、という視点でお送りしていますこのページです。
そして、そのような心理の病弊とはもう古代から語られて来た文明病であり、精神のみではなく肉体の構造に繋がっている、という見解の東洋伝統思想による実践の指導者が文を書いています。
宗教じゃありません。思想と気功とカンフーです。
霊肉一致、身体の視点から心の問題に取り組み、それが最終的に社会の改善につながると言う主旨でやっております。
さて、改めまして前置きから入りましたが、最近、エンドルフィンと言う物について興味深い話を聴きました。
これ、人間が興奮状態になると出てくる神経伝達物質として知られています。
ランナーズ・ハイなんかはこれが出てるそうなんですね。
人間が刺激を求めるのは、刺激に反応してこれが分泌されるからなんて言いますが、このエンドルフィン、内在性オピオイドという化学物質に分類されるのだそうですね。
オピオイド、アメリカでオピオイド中毒者が社会問題になっていますが、その原因が医療処方された鎮痛剤です。
近年社会問題を扱って話題になった映画「ウェイブス」でも、故障をごまかすために鎮痛剤を常用していた高校レスリングの選手がオピオイド中毒になって殺人を犯すと言う描写がありました。
そのオピオイドであるエンドルフィン、言葉の意味は「体内で分泌されるモルヒネ」だそうです。
モルヒネなんですよ、これ。脳内麻薬です。
いわゆるモルヒネというのは植物由来の物だそうですが、これはそれの人体で生成されるバージョンと言う呼ばれ方をしている訳ですね。
ここまではただの情報です。
最近興味深いと感じた本題というのは、このエンドルフィンが、自虐行為によって分泌されると言うお話なんですね。
自分を追い込んでいると出る。
自分を傷つけても出る。
つまり、いわゆるマゾヒストの人というのはこのエンドルフィン中毒になっているのではないかと。
そして、私も何人も見てきた自称癖のある人というのは、自傷行為によってこのエンドルフィンが出ているということだそうなのですね。
何不自由なく育ったお嬢さんが、なぜか自分を貶める様な事ばかり好んで風俗に身を堕として(職業差別ですが)、なにがしかになったような顔をして悦に入っている、というのは、この自虐行為によるエンドルフィンの分泌のせいなのではないかな。
どうもこれは、生存の感覚を与えてくれるそうなのですね。
ただ自分を無意味に卑しめておいて何かしたような気になると言うのは、そう感がると得心が行く気がします。
私は中身のない人間は0みたいな物で、0に何かけても何にもならないと思っているので、そういう人間は相手にしないのですが、その具象として、リストカットなんかをしたらもうそく相手にしないようにしています。
かつての恋人たちにはこういう女の子たちが何人かいたのですが、何を言っても無駄、何をしても無意味。0。
それはなぜなのか。
性格とか環境とかに目を向けても無駄で、単純にモルヒネ中毒だと考えるとものすごく話が見えてくるように感じます。
もう、薬物にはまっちゃったら人格だとか経済環境とか関係ないんですよね。
どれだけ他者から良く見えても恵まれて見えても関係ない。
ただ物理的に中毒しているだけなんですよね。
だから、物理的な対処法と自分自身の意思以外では辞めさせることは出来ないのではないでしょうか。
リストカッターが絶対に自殺はしないと言われているのは、目的が死ではないからでしょう。
そういう自慰行為なだけで、生命の問題は関係ない。
むしろ、衛生問題に関心を持つようになったら辞めるんじゃないかな。
と、ここまでは物理的な問題として書いてきましたが、この物理的な問題を制御しようと言う自覚となるとやっぱり精神の問題になってくるわけですね。
やってしまうのは物理的な問題ですけど、止めるのは精神の問題になる訳です。
えてして、自傷癖者が自己愛の強い人間に見えるのは、入り口は物理だったとして出口としての自立心(自律心)が薄いからなのではないかと私は憶測します。
アルコールを飲む人がみんなアルコール中毒になる訳ではありません。
タバコも同様。
程度を制御できないところにはやはり、精神の問題があるように思います。
私自身も長い間アルコール中毒でしたが、それはやはり精神的に抱えていた問題が大きかったからです。
精神的な発展の積み重ねで、物理的に問題を取り除いて、アルコールから離れるに至りました。
物を取るとか、痴漢をしてしまうとか、ダイエット中に何かを食べたくなるとか、そういう欲求はおそらく誰もが持っています。
それと、それを止められるかは別の要素ですよね。
止められなくて、東直己が言う処の「どうしても人前でペニスを出すのを辞められなかった人間」が問題を抱えている人間となってしまう。
自傷ってのはそういうことです。
どうしても止められない理由の一つに、ナルシシズムがあるように感じます。
ここの記事では、ナルシシズムが社会問題に通じるということを書いてきました。
自己愛性人格障害を持つ当事者の記事を以前紹介しましたが、それによると彼らの心をしめているのは「承認欲求」だそうです。
他人にえばり散らかすのも、こびへつらうのも同じ理由だそうです。
だから、理不尽な振る舞いや暴言を振り回しながら、同時に常に沢山の人々に貢物を配って回っていたりする。
それがうまくゆけば一見人から親しまれているように見えるけれども、よく見ると「ありがとう」と「ごめんなさい」が絶対に言えないことが観察できるという興味深いことが書かれていました。
爆笑問題の太田氏はとんでもないふるまいばかりしていますが、同時に社会問題に関して密接な活動をしています。
その彼がかつて、快楽殺人を犯した少年に対して「表現というものを嘗めている。自分は特別だと思っているんだろうな」と評したことがありましたが「特別だと思われたい」と言うのが実際には近いのかもしれません。
同じ犯罪者に関して、松本人志氏は「人を殺すのもベタしかできない」才能の無い人間だ、と蔑んでいました。
この犯罪の中核にあったのは、やはりナルシシズムだったのではないでしょうか。
最近、とてもいたましい短編小説を読みました。
中華街について非常に深く描かれた探偵小説シリーズの中の一片だったのですが、この番外編的エピソードでは海辺にある郊外の町が舞台となっています。
かつて、幼い男の子が水死体で発見されたことのある町では、その閉鎖的環境の中で二人の人間が何年も経った後でも責められていました。
一人は、その男の子を性的に虐待していたと言われる小児性愛者の男性です。
もう一人は、男の子を発見した少年です。
海に落ちた男の子を見て助けに飛び込んだのですが、間に合わなかったために少年の親からずっと責められているのです。
少年は小説の中の現在では、マジメな保安官助手になっています。
二度と目の前で人を見殺しにしたくないと言う動機でその職についているのです。
その町で、また幼い男の子が溺死するという事件が起きました。
主人公の探偵は事件を調査し、性的虐待の痕跡があったことから、小児性愛者への調査を開始します。
殺人はともかく、少なくとも現在も小児性愛に関する違法行為を続けていた証拠をつかみ、彼は容疑者として彼を警送することに成功します。
あとは警察が調査すれば事件との関りが見えてくるかもしれない、ということでまた同じシチュエーションの殺人が起きます。
件の小児性愛者のアリバイは探偵自身が確保しています。
事件の犯人は保安官助手でした。
今度こそ助けるんだ、助けて英雄になるんだという心の中の子がいつまでも大きく響き続けていて、幼い男の子が居ると自分で海に突き落して、それを自作自演で助けようとして失敗を繰り返していたのです。
自傷癖のある人、自己愛性人格障害のある人というのは、同じ行為を反復して止めることが出来なくなった人達なのではないでしょうか。
他人からの承認が欲しくて、はたから見れば正気を失っているようにしか見えない自作自演を半永久的に繰り返す。
自分の感情にしか興味がなくなっているので、自分で自分を止めることも自分で自分の状態を把握することも出来なくなっている。
この凡庸な悪というのは、衆愚とならんでこの国の社会をむしばんでいる病の根本であるような気がします。
自分で自分を見直し、対策を学んで自分を改善する自浄能力を獲得する以外に、良い手はないのではないでしょうか。
しかしそのためにはまず自分の異常に気付けるまでの自覚が必要となります。
そして、それを止めるには異常性が招くエンドルフィンの強い快楽を自ら断ち切る力が必要となる。
非常に困難なことであるように思います。
肉体の側から少しづつ、気持ちの良い状態を獲得するというアプローチでなんとかできればと思うのですが。