さて、前回は形意拳と太極拳の起勢についてお話ししました。
二つとも、実に起勢があっさりしています。
これはどうも、北の武術の特徴かもしれません。
心意拳も形意拳と同じく、基本姿勢に入る一動作ですし、形意拳の流れをくむ岳家拳も一度大きく身体を上に伸ばして激しく下におろすという一組の二動作程度です。
その二つの動作の中に、太極拳と似て、一度上にあげて、下におろすという要素が表現されています。
面白いことに、その下に合わせた時に前に出るのです。
つまり、これがこの門の発勁の中核となっている。
色々な複雑な技が出て来ても、このやり方で行うと教わりました。
このように、簡潔に本質が現れているのが北の起勢ですが、南の派はたぶん、もちょっと違うことがありえるように感じています。
えてして、北の物と較べると長い。
海賊武術である五祖拳では、同じく本質的な身体の遣い方が表現されているのですが、これが数動作に渡って繰り返されます。
それを繰り返すだけでほとんど母拳の代わりになりそうなくらい、色々なパターンで行っていて効果があります。つまり、難しい。
そして蔡李佛はと言いますと、これが長いどころではありません。
一つの套路です。
途中で動線も変わります。
これは、蔡李佛拳が蔡家拳、李家拳、佛門掌と三つの派の流れを引いており、革命結社の身内の物であると言う符丁が織り込まれているため、各派の要素と組織のアイデンティティが繋がっているからであるようです。
どうしても人は、後から後から新しく教わることに目が行ってしまう。
けれども、本当に大切な根幹は一番最初にすることの中にあるのではないでしょうか。
日本の武術界ではもはや、創作やねつ造がほぼ中心となっていると言ってもいいかもしれません。
そういう物の中に、ここに書いてきたようなことが本当に伝わっているとはちょっと考え難い気がします。
新しい刺激が欲しいという、ただ消費をしたいカスタマーならそれでいいかもしれないとは思いますが、本物を学んで本物になりたいという人のニーズに応える物はないのではないかなあ。
真正な古伝をきちんと理解して受け継いだなら、そこに加える物があるなんて私には思えない。
前の記事に、形意拳の教本として「拳意述真」を出しました。
これは太極拳、形意拳、八卦掌の日本で有名な三派を内家拳として一つのカテゴリーに結び付けた拳師、孫禄堂先生の書かれた本です。
形意拳なんてもろに少林拳じゃないか、なんで内家拳なんて扱いになってるんだ? という謎は、この人が単に元々やっていたからです。
後から八卦掌を学び、中年期に太極拳を学んで、その三つには共通性があるというカテゴライズをしました。
私に言わせると、これは基本的な中国武術の高級要素がそこに見出されたというだけで、別に外家拳だからこうとか内家拳だからどう、ということはないと思われます。
一定のクオリティに達している中国武術なら、最後までやれば結局は同じ段階に至るというのが私の支持している見解です。
上に書いた五祖拳の起勢は、実は太極拳の物と実に共通性があります。
そしてこの拳は老師曰く「形意拳と似ているが形意拳より複雑」。
また、通臂拳は回族武術であり、その招式は心意拳と共通性が高く、回族の教育体系ではこれを学んだ後には心意拳を学んで行くと言います。
心意拳が漢化した物が形意拳です。
また、通臂拳自体をそのまま深めてゆけば、それは八卦掌と同じところに至るというのは台湾の有名武術団体の看板先生の言葉です。
さらに言うと、この通臂拳類が太極拳のルーツだと言うお話もあります。
太極拳と名付けられるギリ手前の拳法が陳式太極拳で、元々は当人たちは「少林拳」と呼んでいたそうですから、これは少林通背拳の類が伝わったのかもしれません。
と、言うようにまぁ、こういう物には極めて広くシェアされた領域と言う物があると思うのですね。
それを気功という中国身体学だと言ってしまってもいいように思います。
そこを理解しないまま、上澄みの部分だけを模倣して悦に入っていてもなんの進捗もあり得ない。
拳意述真の、述真というのは、孔子様の言葉であると言います。
意味は「述べて作らず」。
つまり、師から受け継いだ正しい教えを次に繋いで、自分で創作したりはしないということです。
大切なのは、正しく受け継がれている物を、信頼される人材になって誠実に学べる人間になる、ということであるように思います。