色々な拳士の方のお話を読んでいると、修業の過程でとにかくつらかったのがファンソンだそうです。
これはよく「ファンソン!」と師父から言い放たれて慌てる言葉です。
意味は「力を抜け」くらいのニュアンスでしょうか。「脱力!」みたいな。
しかし、力を抜くってのが言われてはいそうですかと可能なら、世の中に肩こりも腰痛もないのです。
勝手に身体に力が入るから難しい訳です。
前に読んだある記事では、有名老師に入門された先生がやはり「ファンソン」と言われて脱力したら「なぜそんなに力を抜くのか」と言われ、もう少し入れるのかと思ってそうすれば「なぜ力を入れるのだ!」と言われて気が狂いそうだったと書いてありました。
これ、あるあるです。
私もまったく同じでした。
何をやってもファンソンが出来ない。
というか、ファンソンが分からない。どの状態を求められているのか。
ある先生は「最低限動けるだけの力を残しておいて、あとはすべて抜く」と指導してくれました。
また別の先生は「もし腕に雨粒が垂れてきたら、その重さの分だけ腕が沈むくらいの力で動け」とも教えてくれました。
しかし、どちらも頭ではよく分かったのですがやりかたが分からない。
そのためずっと苦労していました。
解決するためにいろいろ考えたのですが、そもそもなぜ力は入ってしまうのかと思案しました。
それは、別のところにかかっている重みを、そこを支えている別の部分に力が入ってしまうからだと当たりを付けました。
どれだけ手に力を入れなくても、そうすれば今度は手の重みを支える体のどこかに力が入ってしまうのです。例えば肩とか腰とか。
なので、重みを支える場所の方を意識すればいいわけです。
と、思ったのがこれも実行は相変わらず難しい。
そんなこんなで苦労しているうちに、最初の拳法修行の年月は終わりました。
いまの鴻勝蔡李佛に入ってから、力を抜けと言うことはほとんど言われたことがありません。
と、言う物、先に勁力の出し方を学ぶからです。
勁力を出すことを覚えれば、逆にそれを阻害する力は自分で抜きたくなる。
消去法で端から間違いをなおしてゆくよりも、まず正解を見つけておけば間違いはしなくなる。
おかげで気づけば、それなりにファンソン問題は解決していったように思います。この辺の段階のよく出来ているところが蔡李佛の美点です。
発勁はどうすれば出来るか、という設問に対して、普通に殴らなければいいんだ、という方向からアプローチすると莫大な時間を必要としてしまいます。
「はい、これが発勁。このやり方をやってね、これ以外はNO」と具体的に示されれば理解は早いです。
おかげで私のような非才の者でもどうにか形になってきました。
とまあ、ここまではシステマチックなお話なのですが、どうもこれと同じことをしてもどうしても出来ない人が居ます。
格闘技経験の厚い人ほど、分かっていても殴ってしまうようです。
ただ立って、触るだけですよ、と説明しても、ぴょんぴょんとんで勢いを付けてから前傾して体重を浴びせながら腕を振り回してしまいます。
そのような動きを癖になるまで染みつけているのです。
こうなると難しい。出来る出来ないは肉体的な問題ではなくて精神の問題になります。
これはもう気持ち一つですからね。
やると決めたなら自分でやるしかないところです。
それでも人は、それまで自分のやってきたことにどうしても執着ができます。
新しいよりよいやり方をすることで、それまで自分がしてきたことが否定されてしまうのではないか、そうなると自分のこれまでの年月や労力は無駄になるのではないか、結果自分の存在の価値は落ちてゆくのではないか。そのようなことに捉われてゆくと、また元の場所に戻ってゆくだけになります。
そこで、もう知ってしまった真実は消せないので、それが出来ないことにさいなまれながら日々を送ってゆくわけです……。
残念ですが最後の選択のところだけは私にはどうしようも出来ない。私が最初に中国武術をはじめたときに老師から言われた言葉「代わりに練習することは出来ない。自分のことは自分でしなさい」です。
きっと、最初にそのように言われるということは、それまでに沢山そのようなことがあったのでしょうね。
自分自身への誠実さ、すべてを自分ごととして受け止めてゆく真摯な生き方が、どうしても芸の習得には必要になってくるのかもしれません。
自分の内側に凝り固まってもしようがない。外に向かってゆくこと。
力は入れるのではなく、外に向かって出すのです。