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内家拳伝説 前編

 少し前に、太極拳権力の成立による内家拳神話のウソについて書きましたが、今回は別角度から、ある種の民俗学として内家拳の物語についての記事を書いてみたいと思います。

 この内家拳という概念、孫禄堂先生が広めたということを書きましたが、これを武当山の仙人、張三豊(張三丰) が創始した道家の武術だと言う話を広めたのは、太極拳と名乗りだした楊派一門だと言います。

 その元祖である楊露禅先生は陳家溝で陳家に伝わる少林拳、砲捶を三十年に渡って修行したと言っており、その段階では仙人の伝説は出てきません。

 陳家拳法、砲捶が楊家拳法となった時に「太極拳」と名付けられたわけですが、この名前の由来は王宗学という武術家の遺した「太極拳経」という文に由来すると言われています。

 では、楊露禅がいつ王宗学にその太極拳を学んだのかと言うと、そんな事実はありません。

 楊露禅が生きたのは1799年から1872年までぐらいとされています。

 王宗学は1795年ごろに40~50歳くらいだったとされているので、なので、時代的には楊露禅にその術を伝えたとしてもおかしくないのですが、楊露禅は10歳の頃には武家の経営する薬店のいわば小僧としてアナキン・スカイウォーカーのように働いており、その武家の行為で陳家溝にて三十年修行をしたとあります。

 となると、七十歳から八十歳の頃に陳家拳法を身に付けた楊露禅に教えを与えたのでしょうか。

 あるいは、陳家溝にて露禅に伝授をしたのでしょうか。

 どちらの記録も残っていません。

 どうやら、王宗学の書を読んだ、楊露禅のスポンサーでブレインであった武禹襄がそこからいただいて楊露禅拳法に太極拳経からこの名を付けたようなのです。

 その上で、これは仙人の張三豊が作ったと言うストーリーも後付けされたようなのですが、実際と名前やストーリーの部分は元々関係がなく、プロデュース能力の発揮によってあとからつけられたものだと言うことのようです。

 しかし、面白いのはこの張三豊、少林寺で修行した後に太極拳を創始したという伝説が作られたことです。

 これ、つまりは陳家溝の少林拳を修行して太極拳にした楊露禅のライフ・ストーリーにちょっとフェイクを掛けて演出したようではないですか。

 この、少林寺修行説を持っているのは同じ内家拳の形意拳も同様です。

 内家拳を提唱した孫禄堂先生が就いた郭雲深先生の師、李能然師は戴龍邦師から戴家の心意拳を学んで形意拳を開いたと言いますが、その戴龍邦に拳を伝えた姫際可師は少林寺で修行をして下山した後、岳飛拳譜を入手してインスパイアされ、心意拳を拓いたのだとされています。

 もちろんこれは開祖伝説の類だと思うのですが、やはり少林拳がルーツにあるとされています。

 こうくると、もう一つの内家拳、八卦掌の始まりはどうなるのかと言うことが気になるのです。

 まず、定説となっているのは、開祖である董海川師が紫禁城の宦官であったということで、彼が開祖である、ということです。

 彼は武術修行をしていた時代に異人と出会って三年の間その拳を修行した、とありますが詳細は不明です。

 これに対して、映画「グランド・マスター」でおなじみの宮宝田の派では、ルーツは羅漢拳ではないか、としているそうです。

 羅漢拳、まさに王道の少林拳です。羅漢とはお釈迦様のこと、出家したお釈迦様の拳だとしたらこれ以上の正道の外家拳はありません。

 ここまで、内家拳も武当山もまったく八卦掌の開祖伝説には出てきません。

 しかし、董海川の創始者伝にはまだ異説があるのです。

 というのも、この武術修行とされている時代、実は董師は侠盗であった、という話があるのです。

 この時代の武術家、特に内家拳武術家には保鏢として盗賊から財を守る職に就いていた人が多いのですが、董海川はその逆の奪う方をしていたという話です。

 董師の話としては、宮廷でお茶を運ぶ下役人をしていたが、ある時に回り道をするのを避けて軽功で壁を飛び越えたと言います。

 その功を見込まれて武官として取り立てられたというのですが、まさに盗賊だったというしたらこれは納得の行くお話です。

 この盗賊説は董海川の高弟であった史計棟という武術家の一派に伝わっているお話だそうで「董海川は劇盗だった」としており、のちに山に隠れて道教を修行し、のちに自ら宦官となって王府に入ったとされているそうです。

 ここで初めて、道家拳法の気配が出てくるのですが、これ、実は戦前、戦後までは日本でも語られていたお話に通じます。

 と言うのも、満州移民自体には彼の地に跋扈していた馬賊というのが少年たちの英雄だったのですが、その馬賊には道教の山で修行をして盗みの術や武術を身に付けて下山してから活動をしている、というお話があるのです。

 その彼らの武術の派を武当派と言ったとあります。

 武道派拳法や武堂派と書かれている物もあったように記憶していますが、誤伝でしょう。

 有名な日本人馬賊、小日向白朗も、この武当派で馬賊の修行を積んで、卒業時に尚旭東という馬賊名とトレードマークとなった「小白龍」と銘されたモーゼル自動拳銃を与えられて下山したと言います。

 もっとも有名な馬賊の王、張作霖もまた武当山で修行したと言います。

 これはあるいは、南少林寺のように具体としての山ではなくてそう名した秘密結社の名前であったかもしれません。

 董海川には、我々蔡李佛と同じ太平天国の一味で、スパイとして宮廷に潜り込んでいたという話もありますから、もしかしたらこの秘密結社説と繋がっているかもしれません。

 この、董海川侠盗説を伝える史計棟派では、八卦掌を「八卦掌というのは後から出来た名前で、元は八掌とだけ呼ばれていた少林拳である」と語り継いでいるそうです。

 こうなってくると、やはり武当派拳術とは元々少林拳の分派であると言うことになってきそうです。

 さて、この八卦掌の門人に、劉徳寛という人が居ます。

 この人は滄州で八極拳を学んだ人で、六合大槍が得意で大槍劉と呼ばれていたそうです。

 董海川のみならず、楊露禅や鷹爪門の劉仕俊と言った当時の名武術家と交流をし、さらには八卦掌の程廷華、形意拳の李存義と義兄弟の契りを結び、交換教授をしていたと言います。

 で、この人が現在私が学んでいる岳家拳を作りました。

 元々鷹爪門の中に、これは岳家散手がルーツである、という伝承があったそうなので、それがそのまま流用されているようです。

 中身としては、たしかに捋手と呼ばれる鷹爪っぽい手法が多様されつつ、形意拳の形式や八卦掌の要素が用いられた物だとされているようです。

 探馬式などの太極拳の招式も見て取ることができます。

 この、太極拳、八卦掌、形意拳の三派融合が劉徳寛師によって行われたのは孫禄堂先生が内家拳を提唱するよりも前の時代なので、あるいはこの劉派のムーブメントを禄堂先生が内家拳と名付けてまとめ上げたということかもしれません。

 劉徳寛先生の居たのが1826~1911年。

 孫禄堂先生は1861~1932年。

 35年時差があります。

 さらにここから、重要な証言が歴史の中に存在します。

 この内家拳構想について、高名な中国武術研究家である唐豪先生が1935年に書いた「内家拳的研究」という書物の中で「太極拳は内家拳なりと標榜するのはすなわち近二十年の間のことである」と記しています。

 禄堂先生の晩年20年ほどに出て来た概念だと言うことです。

 

                                                               つづく


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