さて、ここでもう一度翻ってみましょう。
内家三拳とは、道教に由来する武術であり、道士達の修行場である聖山、武当山の名を取って武当派と言う、とのことですが、ここまで一人も関係者に道士が出てきていません。
孫禄堂先生も楊露禅先生も姫際可先生も、まったく道士の経歴が無い。
唯一、董海川師だけが「盗賊だった時代に山に隠れてそこで道教の修行をしていた」という話がありますが、この伝承には武当山という名前を見ることができません。
それどころか、修行していたのは南方の山だったという話さえ出てきます。
だとしたら内家三拳、董海川師を根拠とするなら南派拳法だったと言うことになりかねません。
さらに。
じゃあどこから内家拳という言葉は転がり出てきたの、ということを調べると、これ、実は固有名詞として「内家拳」という言葉があったそうなのです。
中国のルソーと呼ばれた黄宋義という学者が記しています。
「張三豊の術は陝西省に伝わり、王宗と言う者が有名である。温州の陳州堂は王宗に師事し、これを郷里に伝えたので温州に流伝した」とあります。
この一派の中から、明末に王征南という人が出てきます。
この人の遺した拳術の極意が太極拳の極意に通じていたことから、内家拳の名は流用されたのだと言います。
と、ここまでは命名の由来に留まるのですが、ここからちょっと気になることが出てきます。
温州は昔から拳術の盛んな地域で、その年代は四期に分類することが出来る、と「温州南拳」という記事に書かれているそうです。
一期は南宋の時代。つまり、岳飛の時代であり、第一期海賊武術の時代です。
二期は明末。この時代に、元の侵攻に対して温州にはいくつもの明教の支部を組織し、武術の指導を行っていた、とあります。
明教、明の名のもとになった日月神教と言う宗教結社です。
明太祖、朱元璋はこの明教の力で抵抗活動に成功したと言いますが、南派太祖拳の開祖はこの朱元璋だと仮託されています。
実際に朱元璋が拳法を編み出したかはともかく、これが明教の武術に繋がるということはありえるお話です。
そして、この南派太祖拳、総合鶴拳である五祖拳の五祖の一要素です。
五祖の一人がこの太祖なのです。
話を続けて第三期となると、これが遡って明の中期で、武術が広まってゆくことになります。
「男児にして武を習わざる者は好漢にあらず」と言われた尚武の気風があったそうです。
この頃、温州はたびたび倭寇の襲撃にあい、日々闘争が行われていたと言います。
つまり、第二期海賊武術の時代にこの地の武術は熟成されたのです。
そして第四期が清朝期で、この時に反清組織の三合会が福建省からこちらに勢力を延ばしてきて、その武術を広めたのだと言うのです。
「この土地の技法は南派武術と結びつきを強め、現在温州に最も普及している虎門拳法、剛柔門拳法、五鶏門拳法、鶴形門拳法にその一斑を伺うことが出来る」とあります。
いかにも空手のルーツでありそうな名前が出てきています。
鶏の名前も出てきていますし、何より鶴拳の名が伺えます。
なにせ福建南拳ですから。
そして、王征南の拳譜を見ると、どうもやはりこの固有名詞の「内家拳」と言うのはそれらの典型的な福建南拳のようなものなのではないか、と言う考察があります。
こうして内家拳伝説をさらってみると、実は私の研究と非常に重なっているところが多いことが分かりました。
別にそうするつもりもなかったのですが、真実を求めている内に、気づけば歴史の文脈の中央に流れ着いていたようです。
これからも結論を急がず研究を続けてゆくことで、正伝の中国武術のメイン・ストリームの実態を学び続び続けてゆきたいと思います。