さて、日本の中国武術界の不毛さをこのひと月、いわゆる内家拳の普及が由来であると言う視点から書いてきています。
戦前までの段階で、倭寇には剣術が輸出され、江戸期には柔術に中国武術の一部がオマージュされるということはあった物の、中華文化圏において例外的に中国武術が根付かなかったということが戦後にまで影響しているように思います。
日本に中国武術の大々的な流入が始まったのは80年代からで、当然すでに共産党の政権掌握と文化大革命が完了しており、前の記事で書いた通りのパラダイム・シフト後でした。
そのため、それ以前のいわば歴史的なスタンダードな中国武術観と言う物がまったく入ってこなかった物だと思われます。
せめて義和団事変や太平天国以前の武術が入ってきていればまだ見え方が変わったとも思われるのですが、幕末の志士が太平天国の乱にインスパイアされたという以外に、具体的な物と接すると言うことは一定の規模では無かったようです。
そのため、動乱期後のある意味で「固まった」あとの中国武術との遭遇からが現代日本人における中国武術の始まりとなるのですが、そうなると当然、もう一定の見識者向けに「仕上がった」物が入ってくる訳で、まったく経験も見る目もない人間には理解が出来なくて当然です。
かくして、80年代からバブル崩壊までに至って一部中国武術ブームとなるのですが、はっきり言ってそれらが実を結んだということにはなりませんでした。
結局、体制によって創作された表演武術と、その印象の元に受け入れられた「いわゆる内家拳」が不明瞭な形で根付くにとどまったように思います。
何が不明瞭化と言うと、結局それらをいくらやっても、パラダイム・シフト前の中国武術を理解することが難しいということです。
黎明期の太極拳の代表的な先生(K先生)ですら、発勁はスナップだなどと言っている訳ですから。
そして、この不可能性、内家拳はやっても出来るようにならない、というのは実はそのパラダイム・シフト下での仕様です。というのが今回の記事の趣旨です。
「君は拳意述真を読んだか」の中で、内家拳のいわば直接の源流であると言える郭雲深先生が「俗人には毒であるから内丹の法は教えない」と言ったということが明記されていることがその根拠です。
内家拳は気功だ内功だなどと謳う日本の中国武術オタクは、一つもそれらを理解していない。
なぜなら「俗人には毒なので教えない」とされてきているからです。
ただ教えないだけでなく「万金を伝えたとしても教えない」とまでしているので相当に教えないことこの上ありません。
だから、内家拳ブームでありがたがってやったとしても、出来るようになんてならないんですよ。
ならないように出来ているのですから。
いや、俺は努力して自得した、という人も居るでしょう。
そういう人には「教えられていないのに自己流で出来るようになった気になるのを俗自然の勁と言って、この俗流にはまるとどれだけ稽古をしても一生本当にはできるようにならない」という記述が用意されています。
きちんと本場に行くか本場の先生からかの弟子になって「俗人には教えない法」を授からないと、形式以上の中身は入ってこないことでしょう。
では、出来るようにならないならやる価値がないのかと言うとそんなことはありません。
「内家拳とは中庸であり中和の道だ」と言うことが件の書には繰り返し、多くの先生の証言として遺っています。
すなわち、その上乗の功である化勁とは儒家の言葉で言うなら中和であり、天人合一であり、タオで言うなら無為自然であり、仏教でいうなら無念無想ということなのでありましょう。
これら三道をして中国思想はなっており、また三つ合わせて「佛教」と言う言い方をしたりします。
つまり中国仏教のことです。
そこにおける思想的な向上があるなら、日本の「いわゆる内家拳」をすることは無意味ではありません。
そして、そういうのなら、まさに上に書いたようにそれは「佛教」の行であり、その中身は少林拳そのものにあるのですよ。
「いわゆる内家拳」の人たちがなぜか下に見ていた「外家拳」です。
いや、出家して禅の修行をする人たちの行が「外家拳」なのだから、そこに見下したところなど何一つある訳がないでしょう。
まずはそこから目を覚まさないと。
修業とは迷妄から正しい認識に目を覚ましてゆく道です。
だから、本当に内家拳における向上を求めるなら、本道の弟子になって秘伝を得るか、あるいは外家拳の修行をするか、または参禅などなさればよろしい。
内家拳も外家拳も、本質は禅にあります。
実際に、私の知っている正統な日本人師父はそれらのことに力を入れていますし、自分の本業は禅師だという方もいらっしゃる。
道士をされている方もおられると聴きます。
なので、本当にやりないなら禅をなさればよろしい。
強くなりたいなら正々堂々格闘技をやればよろしい。
やってないのに、やった気にだけなろうというような浅ましさは本来、この世界にはもっとも似つかわしくない。