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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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洗髄とフィリピン武術と瞑想と借力 3

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 さて、前回まではフィリピン武術の組み稽古に見られる中国武術の本質について書きました。

 今回は別の技法を扱いたいと思います。

 それは、中国武術における借力です。

 これ、我々の蔡李佛ではジェーレ(ッ)と発音します。

 ジェーレとはなんでしょうか。

 相手の力を借用する手法なのですけれども、これ、やはり他の技術と同じく段階があります。

 もっとも表象的、外面的なのは、太平天国拳の套路の内、太拳の中に出てくる物です。

 太拳は元々泰拳であり、太平天国の乱の主要構成員であったチワン族(壮族)の武術の要素が非常に強い独特の物となっています。

 このチワン族、泰族の一つと称されているから泰拳なのですが、泰族とはすなわちタイ民族のことです。

 彼らの内、西側に棲んでいるのがいまのタイ王国の人々であり、東側、江西省に棲んでいるのが中国の少数民族、チワン族です。

 中国の約六十の少数民族の内には、回族や西域のチベット族、朝鮮族など、様々な現在の国境では外国となる場所に国を持つ民族が含まれています。

 その一つであるタイ民族の武術である泰拳というのは何かというと、すなわち古式ムエタイのことです。

 その古式ムエタイである太拳の借力とは何かというなら、首相撲からの肘打ちや膝蹴り、また投げです。

 日本の柔道のように相手を掴んで足や腰に引っ掛けるようなな物とは違い、ムエタイでは相手の力を利用してそのまますっころがすという空気投げが用いられます。お相撲的です。

 かつてテレビ放送されたK-1マックスでのブアカーオ選手と、日本人のアイドル・チャンピオンの試合では、1ラウンドの間まるまる、なすこともなく投げられ続ける日本人の姿が露にされました。

 ブアカーオ選手、お相撲も強いに違いありません。

 この借力、上位になると触れるだけで相手をその場に崩したり抑えつけたりします。

 これはある種の柔術技法であるのですが、決して関節技を掛けたりということではありません。

 相手の身体の中にある力の流れを感じとって、その構造を利用するのです。

 勁と発勁の違いに関する記事を書いたときに、発勁と言うのは勁の力で体内に造ったピタゴラスイッチを用いて打つことだと書きましたが、この相手のピタゴラスイッチを使います。

 その弱い部分に弱い方向から力を加えたり、あるいは外から発動させて自分の力で下に押しつぶれるように向けたりします。

 これ、基本的には発勁よりも難しくない技法だと思っていたのですが、しかしどうしても引っかかるところがずっとありました。

 そして、年月が経つほどに、これはある意味で発勁と同じなのではないかという感覚になってきました。

 それは、自分自身が拙力を使わず、勁によって動いて暮らしているために何をしても発勁だと言うことも出来ますし、相手の身体の中を探ってそこに力を加えると言うのはやっぱり発勁の観点から行うためでもあるのですが。

 さらにこの借力を、私が研究している心意拳類の文脈からたどってゆくと、どうもやはり、心意にたどり着くのです。

 元々、心意拳類とは虎撲把と鷹抓把の二つだったと言う話があります。

 虎撲の撲とは、殴るという意味ではありません。

 中国語の撲とは捕食するという意味です。

 すなわち、虎が捕食するということです。

 同様の言葉として、飢虎撲羊という招式や飢虎擒羊という招式がありますので、恐らくはこれらはこの虎撲把から発展した物なのではないかと思われます。

 鷹抓とは、鷹が獲物を捕らえるときの様子だと言います。

 オオタカは自分より大きく体重の重い哺乳類に襲い掛かって頸椎を爪で挟み込んでそのまま砕いて捕食するのだそうです。

 人間も犠牲になることがあるので、平原に行ったときには注意してください。

 虎撲把と鷹抓把、どちらも得物を捕らえるための動作の名前がついています。本来、相手を押し飛ばす物でもその場に打ち倒すための物でもなかったのではないか、というのが憶測です。

 相手の内側を捕まえてその場に押さえ込んでしまうと言う借力がこれらの原点だったのではないか、というのが私の仮説で、その用勁で相手を打つための工夫があって、そのための招式である挑領と斬拳が加わって四把となったのではないか、というような発展をして行ったのではなかろうか、と思うのです。

 これらの見解から、借力と発勁による打は出来るようになればどちらもあまり変わらないというのが私の説です。

 そしてこの借力、つまりは相手の内側に働いている力の中和となります。

 発勁も同じく、相手とぶつかったときも同様。

 相手と自分がぶつかったときの力の状態の中で、自分はそれ以前と同様の整った状態、つまり形意拳で言う三体式を維持したままで居れば接触時の力は相手に返って行くのです。

 これ、すなわち身体における中和、中庸の作用です。

 いわば、沖気の作用であるとも言えます。

 台湾に伝わっている、発勁の強さで有名な太極拳の派では、発勁は中気をもってすると言います。

 これ、やはり通じているのではないでしょうか。

 さらに言うならこの中気と発勁に関して気になっていることがあります。

 最近、どうやら十日練功によって房中術で開発していた中脈が良くなったようだということを以前に書きました。

 そして、その結果、勁が強くなっているとも書きました。

 これつまり、中脈の気ですよね。

 でもってこれの活用で、私の発勁は強化されている訳です。

 例の十日練功の内容を軽くやると、自分の身体もそれを打った自分の手も、ものすごく痛い。

 気血が巡り、重さが増しています。

 この中脈、下丹田の精が練精化神して上丹田に行くルートであるとされています。

 すなわち、下腹部と頭頂を繋ぐラインです。

 身体の中のその場所に強固なラインを持ち、それを鉄骨として発勁すると言うのは理にかなった話に思えます。

 心意拳類の身体論としては、外三合理論が有名です。

 これは掌と足裏を対の物とみなし、肘と膝、肩と股関節も同じくみなすと言う、二足動物の身体構造を四足動物の物に作り変えるという理論です。

 決して、これらを同調して動かせば力が出るからナンバ理論だ、と言うような表層的なことではありません。

 以前そのような論と混同したのか、整体名人がそれだけでは力が出ない、と言ってきたことがありますが、そうなのです。

 四肢の力は四肢で出す物ではありません。

 これはあくまで、マックとかウィンドウズと言うようなOSレベルのレイヤーでの構造規格の話であって、力を出すのは別の場所です。

 それは丹田です。

 三丹であり、七丹です。

 七丹、すなわち法輪=ヨーガで言うチャクラです。

 これらはすべて体幹部にあります。外三合の四肢にではない。

 外三合理論というのはこの丹の力を四肢で活用するための理論だと解釈して良いでしょう。

 では、その力の根本である丹法とは何かといえば、これが郭雲深先生言う処の「俗人には返って毒になるので、万金を与えることはあってもこの方法は伝えない」とした物です。

 なので、弟子の白西園先生が言うように「真伝を得なければ朝晩死ぬまで練習しても一生できるようにはならない」という物です。

 この丹を練って三才を通した身体を維持するということが、ここに書いてきたすべての中核である、中和、中庸、すなわち瞑想の維持にある状態の力、ということだとして私は練功、伝授をしております。

 その目的は、決して勝敗でも強弱でも発勁でも借力でもありません。

 それらは単に結果に過ぎない。

 本質は、三才の合一、環虚であると言うことでしょう。

 ですので、瞑想を求める人々にのみ、これらの指導をしております。


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