最近、イギリスの女性作家が書いた小説「ロボット・イン・ザ・ガーデン」を読みました。
無責任なニートの男性が迷い込んできたロボットを育てることによって成長するという、同じイギリスの作品である「アバウト・ア・ボーイ」の少年の立ち位置をロボットにしたような話でした。
何かイギリス社会における、うまく大人になれないということ問題が浮き彫りにされたような感を受けました。
このような問題はイギリスだけのことではありません。
アメリカではさらに細分化されて、富裕層は大人になれず、貧困層は環境が悪くてともに成熟できないということが問題視されています。ちなみに、スタンド・バイ・ミーというのはこの貧困層が大人になるということの至難さを描いた作品です。
韓国も含めて、先進国に共通の問題であるのだと思います。今後、中国でも同じことが起きてゆくことでしょう。
日本でももちろん、すでに深刻な問題となっていると思います。
上にあげた小説がすでに日本の状態を超えて克服期に入っている社会で描かれたなあと思ったのは、そこで直接子育ての話にしていないことです。
ロボットや近所のシングルマザーの子供などとの疑似親子関係を触媒としていて、決して安易に子供を育てればいい、などという解決を提示していない。
それはより問題を広げて悪化させるだけです。
私の周りにも、発達障害や人格障害を抱えている女性たちが、子供を産むことで一人前の人間になろうとして妊活をしているというケースがありますが、何一つ問題の解決になる気がしません。どうしても不幸な子供を無責任に作るようにしか思えない。
アメリカやイギリスでは、おそらくこの段階はとっくに越しているものだと思いますが、子供を産むと一人前になる、という考え方は日本ではかなり改めがたいのではないでしょうか。
これは、日本社会というのが、そもそも形式的な物だからではないかと強く感じます。
実際のところ、日本社会は隣人が成熟することを本当のところでは望んでいないのだといつも思います。
例えば同じ立場にいる友達が、ある時から文学や絵画に関心を持ち始めたとします。すると隣にいる同僚は時にこんなことを言いがちです。
「なんだよ、かっこつけやがって」
文化的になるということは、格好つけであるというおかしな見方があります。ただの嗜好なのに。
また、これが落ちている煙草を拾うとかであっても同じです。トイレの後に手を洗うと言うのも。ただの衛生観念なのに。
とにかく日本の平均的な人々というのは、自分のしていないことを他人がすると不快に感じるという意味の分からない傾向があります。
また、その逆に自分の好きなことに他人が興味がなくても同様です。こういう上司いませんか?
「なんだ、お前煙草も酒もやらないのか? 競馬もパチンコも? 何が楽しくて生きてんだ?」
生きていてうれしいことというのは、煙草を吸って酒を飲んで競馬をしてパチンコをすることなのだ、という貧相な人生観の大人が恐るべきことにたくさんいます。
そのような大人のさらなる上位概念が「ベンツに乗ってゴルフをしてソープに行く」ことです。
私は上にあげたことの内、お酒はほんの少しだけ飲みますが(ビール一杯で真っ赤になり、二杯で頭痛)、ほかのことは一切しないし大金が余っていたとしてもまったく興味がありません。
けれども、ものすごく毎日楽しく気持ちよく暮らしています。
高度成長期の日本経済を支えてきたのは、煙草酒パチンコ競馬ベンツゴルフソープという、非常に貧しい価値観による飢えです。
そのような価値観の中に、パワハラもセクハラも内在されていると感じます。
その価値観の中では、人間的な成熟や成長は許されることではありません。
ひたすらに、同じ価値観を共有し、独立した精神など持たないことが美徳とされています。
日本人というのは、前の人の踏み固めた道を目を閉ざしてたどってゆくことが社会秩序の安定化だと進行している民族です。
これは一大ポイントであった敗戦をさかのぼって、文明開化や徳川幕府の治世までに起因する問題だと思います。
西洋社会にはキリスト教があったことで、返ってそれを離脱する人文運動が起きたのに対して、日本にはそのような強固な価値観が無かったことが関係しているのだと思われます。
結果、昔はやった言葉「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式の、個の独立を許さない社会が形成されてきたのではないでしょうか。
そのために、みんなと同じであることが常に目標とされ、それを達成するために子供をバッジのようにみなす女性たちが顕れたのだと思われます。
このような社会では、実際の能力を挙げるというのは感心したことではありません。
たまたま拾った結果を能力だと吹聴して要領よく立ち回るという、隙のある中身のなさこそが安全で安心な、共感の出来る結果の出し方です。
そのために、日本では嘘ばかりたれ流して、粉飾し、ちょろまかして上手くごまかす人間が出世する人間だということになった。本当は実力が無いと言う社会秩序への安全性が高いからです。
本当に能力で何かをするような人間は何をしでかすか分からないから叩いておかないと、というところでしょう。
子供をバッジ扱いしているような女性は、このような社会のインサイダーからすれば、安全な格下の存在です。
はっきり言って、そのような虚妄の体裁の社会の中で生きることは私は好きではありません。
個が立つことを阻害するような社会は肯定できません。
人は、自分の命を生きるべきです。
誰かをバッジにしたり誰かにバッジにされるために生きているのではない。
命を立てる。
このことを立命といいます。
この立命に、心を安らげるという意味を足して、安心立命というのが陰陽思想における目標です。
安心立命して生きることから、本当の命は始まるのだと私はいつも信じています。