先日、いつものようにラジオを聴いていたところ、私より少し年上のラッパーが私たち世代にドンピシャのR&BやHIPHOPを掛けると言う番組で、興味深いリスナーのメールが取り上げられました。
「この番組でかっこいい音楽を聴いている間だけは、自分がかっこいい人間になれるような気がしています」
そういう内容でした。
これに対してDJは、その通りだ、と答えました。
かっこいい音楽を聴いている人間は、かっこいい人間なんだ。と。
かっこいい音楽を聴いて、かっこいい服を着ていればかっこいい人間なんだ。
逆に、かっこ悪い音楽を聴いてかっこ悪い恰好をしているとかっこわるい人間になる。とも言っていました。
このDJはね、昔のラッパーらしい、大雑把な発言をするおじさんであることを装い、大ぶりなお話をするスタイルのエンターテインメントをされている方です。
なのでね、細かく突けば、いやそうしなくても、隙だらけで大上段の発言だと見なすことはものすごく容易です。
でも、ここから真理を掬い上げる、あるいは一抹の価値を見出すということを私はしたく思います。
これはね、礼を尊び、形式から深意に至ろうと言う儒教の考えにも照らし合わせることが可能な発言ですし、老荘の立場からしても納得が行くように思うのです。
ダサいヤツの中に埋もれてしまっては、ダサい人間としてそのまま終わる。
私は常々そう感じています。
ですので、私は可能な限り、ダサい奴らとは関わらない。
平素、隠棲の身を標榜していてその隠者としての立場からの発言と行動をしていますが、もっと噛み砕いた言い方をするならそういうことなのです。
ダサい奴らとは関わらない、というだけの。
優しい気持ちを持って、ダサい奴らと付き合っていると、必ず自分もダサい目に会わされます。
くだらない痴話げんかの当て馬にされたり、その場限りの薄っぺらな感情につき合わされたり。
何につけ本気でやれないダサい連中など構っていても意味がない。
本気の人間は本気の世界で本気の行動を起こし、本気で生きている以外の暇はない、それで良いのではないかなと思っております。