前回までは倭寇林鳳による、マニラ襲撃について書いてきました。
この林鳳、スペインの記録ではリマホンと書かれていると書きましたが、この名はリム・アホンと言う二語がリンクした物だと言います。
中国では、回族の司祭のことをアホンと言います。
と言うことは、この林鳳はもしかしたらイスラム海賊だと思われていたことからリマホンと呼ばれていたのかもしれない。
彼の副将のシオコは、もしかしたら潮来に由来するのでしょうか。
複数国混成集団の中での無法者の呼び名には興味深い物があります。
1574年のリマホンの襲撃から8年後の1582年、またしても倭寇によるルソン島への大規模な攻撃がありました。
この時の倭寇の親玉は、タイ・フーサと呼ばれていたと言います。
このタイ・フーサはどうも真倭であったらしく、部隊も日本人性が高かったようで、日本式の甲冑で武装していたと言います。
彼らは日本人、中国人、フィリピン人らからなる海賊たちだったとあります。
ここまでの記録だとフィリピン視点の物が多かったので、どうしても襲ってくる海賊はイスラム教徒や中国人、日本人ばかりだったかのようですが、ちゃんとこの時の記録にはフィリピン人の海賊についても書かれています。
職業的区分としては、浪人、商人、漁民などで構成されていたと言いますから、現地漁民と言うのがことあればそく海賊になるということがあったという記録としても十分でしょう。
これらの構成員からなる大集団が、ルソン島のカガヤン地方と言うところに海賊都市を築いており、そこからマニラの中心部にまで手を伸ばして密貿易や金銀の交換取引をしていたそうなんですね。
この行為に対してフィリピン総督は海軍を出動させ「カガヤンの戦い」と呼ばれる抗争に至ったと言います。
タイ・フーサの一味は甲冑と銃で武装していたと言いますから、これは鉄砲衆であることが分かります。
スペイン側の調査によると、この時の銃砲はポルトガルから購入した物だと言いますから、戦国武者がここでマネー・ロンダリングをしていた可能性が高い。
この時代、世界の銀の大部分が日本から輸出されたものだと言うので、カガヤンのアジトはその拠点の一つだったのでしょう。
親玉のタイ・フーサは、中国側の記録ではダーフーとされていると言います。
これはどうやら、大夫のことらしく、これが仲間内ではタイ・フーサと呼ばれていたと言うのは、大夫様と言う日本語に由来すると言う記述があります。
スペイン兵、カリオン将軍に率いられた海軍との交戦は初めの砲撃戦ではスペイン側が有利で船をつなげて海賊船に乗り込んだのですが、カタナを抜いて白兵戦になると倭寇たちは滅法界に強く、逆に押し込まれてしまってスペイン船に侵略を許してしまったと言います。
この記述は、中国での倭寇対策にある「倭寇たちは地上戦になると強いが海上戦だとそれほどでもない」と言う記述とも合致しており、興味深い。
ウィキペディアではこれは、倭寇側の火薬の質が悪かったからではないか、という考察があります。
これは日清戦争で有名なのですが、海上戦において火器の火薬の質が悪いと、煙がこもってしまって狙いが付けられなくなるのですね。
兵装の差では不利でも、白兵戦となるととにかく強かったという倭寇によってピンチに追い込まれたスペイン海軍ですが、ちょうどこの辺りで増援部隊が到着したことで再度逆転、そのまま勝利に至ったと言います。
優位に転じたところでスペイン海軍は倭寇たちに島から出てゆくことを要請したそうですが、倭寇たちはこれを受け入れず総力戦を仕掛けてきた後、全滅したと言います。
この戦いの後、倭寇の恐ろしさを知ったフィリピン側は海軍力を増強することになったというお話です。
また、彼らは倭寇のアジトからカタナや甲冑を略取したということですから、それも含めてまたのちの海賊武術の発展に大きな影響をもたらしたことが考えられます。