先日、老師からオンライン・レッスンで五祖拳の四門という套路を全套教わることが出来ました。
これは四門打角、もしくは四門打転と呼ばれる物で、二つ目の套路の二十拳と同じく四方に転換しながら行う物です。
ラプンティ・アルニスにも同様の構造のサヤウ(型)がありますが、それはラプンティ・スタイルが中国武術から作られているためでしょう。
四門は私が初めて老師から見せていただいた五祖拳であり、いつか覚えたいと目標にしていた物です。
これと鉄尺(釵)が、私の最初に観た五祖拳であり、いつか老師に伝授していただき害と思っていた二つの目標です。
四門の套路には、鞭と言う字訣の動作が出てきます。
中国で言う鞭というのは斧も含めた鈍器のことで、鞭という動作はまさに鈍器で打つように打撃する物です。
老師が曰くには、五祖拳の中の最も威力のある打法だとのことです。
兵器としての鞭の中には鉄尺も含まれるので、五祖拳の動作としてはこの看板兵器を使う時の手法だとも言えます。
五祖拳の内側の要求としては最も重要な物は初めに習う三戦の套路で養われると思うのですが、四門ではこのような用法的な動作が多いように思われます。
ただ、この四門まではまだ母拳、基本の套路なのだと老師はおっしゃいます。
そう考えると、鞭もまたしかりだと思われます。
私が五祖拳に興味を持ち、フィリピンにまで探しにいったのは、それが海賊武術のもっとも突端に至った心意把だと思われたからです。
仏教武術について調べていると、どうもそのような可能性があちこちの資料に出てくるのです。
心意把という言い方は厳密には不適切かもしれないということは実は最近の研究で分かってきたのですが、まぁ要するに後に心意把になる回族武術の流れです。
なぜこれを不適切かもしれないと言うかというならば、心意把が元祖である、というのは少林寺側の伝承のようで、実際には継承者によると心意把は明の時代から確認された物で、それ以前に少林武術には無かったかもしれない。
だとすると、回族の武術が少林寺に到達してそう呼ばれるようになった、という方がおそらくは正しいと思われるからです。
おそらくは心意六合拳、ないしその前段階の回族武術での練功法が元祖だ、というのが正解ではないかと思われます。
それが一つの拳種として心意六合拳になり、漢族では心意拳、形意拳になった。
その流れが少林寺に伝わった物が心意把であると現状仮説しています。
この少林心意把の継承者に、楊桂吾先生と言う方がいらっしゃった。
楊先生は僧では無かったようなのですが、83年に中国で少林寺のドキュメンタリーが撮影された時に髪を丸めて僧侶の振りをして心意把の表演を行ったといいます。
文革後の少林寺には、心意把がちゃんと打てる人が居なかったのですね。
この世代では、楊先生が最年長継承者だと言います。
前の伝承者が取った最初の弟子ということです。
その先生が曰く、心意把は起落把という物一式だとのことです。
この動作は、心意把の常で、要は手足を上げておろすだけです。
まさに起落把の名にふさわしい。
それでね、この動作がですね、五祖拳の鞭に非常に近似しています。
五祖拳は基本動作を繰り返す套路が非常に多いようなのですが、三戦の基本にあるように、ほとんどの動作は後ろから前に出ます。
上から下に打つ、というのは四門で初めて出てきます。それが鞭であり、もっとも威力が強い物だと言う。
これは何か繋がっているかもしれません。
ただ、鞭字訣の場合は足を上げない。
手足の同時上下という要件とは違います。
五祖拳は双重の南拳として始まるので、この段階では少なくとも鞭をしても両脚はしっかりと地面に繋がっています。
片足立ちになって単重であるということが心意系武術の要点なので、これは重大な要素が形には現れていないことがあります。
しかし、こと足に関しては、暗腿という言葉があり、すべての歩みには足の要領が隠されているというのもまた心意系武術の常識なので、あるいは形には現れていないかもしれないけど、修練を続けていればある日師匠から「実はそこな」とささやかれるものかもしれません。
というのも、この四門にはもう一つ、それまでの套路には無かった特徴があるのです。
それが、跳ぶと言うことです。
他の套路では常にしっかりと双重でしたが、この套路では突然別の物のように跳躍動作が入ります。
そしてこれもまた、心意武術では単重を暗喩した記号であったりするのです。
なのでいずれこれらの要領が、いつの日にか心意に繋がった内容に至る可能性は充分にありえます。
ちなみに、楊先生は功夫とは内外合一だと言われていました。
タオで言う無為自然、儒教の天人合一と同じく、外の世界と自分の内側との一体が目的である、ということでしょう。
やはりね、中国武術ではそこがもっとも大切なところなのです。