前回は古代社会における学問の視点を通して社会階層の区分について書きました。
そこにおいて、自ら生き方を選ぶ層と労働者階層の差異と言う物が認識としてあったのであろうというところにまで至りました。
後、産業革命の時代に至り、工業化によってこれらの階層分けがあいまいになり、ある種の悪平等が広まったことによって大衆と言う物が悪しき力を持って世の中を支配するようになり、現在問題になっているポピュリズム社会が成立したのであろうと考えています。
この大衆による、知的階級の逆支配を「大衆」という概念の提唱者であるオルテガ先生は「大衆の反逆」と呼んでいます。
一旦話を飛ばします。
先日、医学博士の友人と宗教の有用性について話し合いました。
彼は理系の人らしく、信仰や宗教は脳の反応に過ぎないので無くても良いと言う否定的な考えを持っているようでした。
私の考えはもっとタオ的です。
厳密に言うと信仰と宗教は別物なのですが、と先に行った上で、少なくとも宗教は極めて必要な物であると言う持論を展開しました。
もっとも端的に言うなら、それはインドを例にとってお話が出来ます。
「もしすべてのインド人がイギリス人と同じ生活をしようとしたら、地球の資源は瞬時に枯渇する」という考えがあります。
これは逆を返せば、彼らの生活に対する姿勢によって地球の自然環境がいまの状態に抑えられている、と取ることが出来ます。
彼らが不便に耐えていてくれているから我々はいまの生活が保持できている。
では、なぜ彼らはそれが可能なのか、というと、やはりそこに宗教に支えられた文化認識があるからだと思われるのです。
再び逆の視点から見ると、ではなぜ私たちはこのような生活を必要とするのでしょうか。
それこそ、資本主義社会の価値観によってでしょう。
ではその資本主義社会の価値観とは何か。
キリスト教です。
これもやはり宗教から始まる。
社会とはこういう物だ、という「大きな物語」を支えているのは明らかにその土地土地の歴史に根差した宗教ないし信仰に由来します。
資本主義とはプロテスタントの思想であり、それがすなわち自由主義や民主主義となっているのですが、そこには「信仰とは神との個人的な契約である」という概念が前提として存在しています。
新約聖書の約というのは約束、神との契約のことです。
この考えがあることによって、自分とは違う他者に関しても、神の物であるという尊重が成立します。
これによって、理性や知性によって支えられた公平性が維持される土壌がまず生まれます。
たとえ理性や知性に関する訓練が乏しくても、信仰さえあれば個の尊重は自然に生まれる。
そして教育を高めて行くほど、これら理性や知性は高まるので信仰と相反することはありません。
民主主義と言う、個人主義を尊重した社会体制には繋がりやすい。
日本社会が、世界的に最も成功した社会主義だと言われるのは、実はこの信仰の不在に由来すると解釈が可能になる訳です。
キリスト教的精神がないままに経済体制だけを資本主義化すると、個を使い捨てにして全体主義的経済を優先するという生産性の重視が強まります。
これ、唯物主義と生産主義、歴史主義の社会主義のコンセプトに非常に近いですよね。
ここに、逆襲に至った大衆の失敗が現れています。
悪平等に寄って知性主義を埋め込んでしまった結果、誰も尊重されずに自らを切り売りして滅びながら数字にしがみついてゆくことになったわけです。
数字のための数字には循環性のある目的がありません。
自分たちを切り売りしていった結果が、三十年の経済停滞と人口減少です。
知性主義的リーダーが存在しない以上、すべての民衆がその状態に対する責任を持つことになる。
ですが、大衆とはその責任を認識する能力が存在していない。
一旦堰を切った流れはそのままとどまることを知りません。
そこで唯一の対策は、人々が目を覚ますということにあるのではないかと訴え続けている次第です。
つづく