ここでは、伝統思想から見た現代社会について頻繁に記述しています。
現在の世界的なパラダイム・シフトにおいては、分断という傾向が注目をされていますが、私は分断に関しては過渡期に必要な物だと認識しています。
ただ、その分断とは一体何なのか、という人の質の差に関しては非常に関心があります。
それを噛み砕くことで後の段階にあるはずの再融合の取っ掛かりになるのではないでしょうか。
私たちの思想の一つの土台となっている仏教では、すでにインド社会におけるカーストという明確な階層分断があります。
ブッダの教えはそのような生まれる前からの因果による干渉から自由になることが根幹となっているはずです。
中国においてはタオの思想がありますが、こちらでは人の分類に関しては非常にあいまいです。
「世間のこういう人は分かってない」とか「出来ないヤツってこういう感じだけど違うよな」と言ったような感じであって、その彼我の差は明確にはされていないように感じます。
出来る人に関しては、聖人、賢人という言葉が使われています。
タオと一対と言っても良い儒教においては、君子や太夫という言葉が頻出しており、これが上述の聖人、賢人に並ぶ「出来る人」と言う形で解釈されます。
これらの人々と、それ以外の「出来ない人々」の間の比較が延々と語られます。
ここに我々は、現代にも通ずる分断を見ることが出来ます。
ブッダの教えにおいては、目を覚ました人とそうでない人と言う区分があり、タオにおいてはそのタオの流れを読む人と読まない人、儒教においては君子と非君子という物が並べられるのですが、この差異はなんでしょうか。
このような人種の区分と言うのは、古代西洋社会にも見られます。
ギリシャにおいては市民階級と奴隷階級という物があったと言います。
奴隷階級と言うのは現代人の観点からするとずいぶん低い者だと感じられますが、当時の奴隷階級と言うのは決してアメリカの黒人奴隷のような物ではありません。
きちんと賃金が払われており、それを貯めて自分で自分を買い戻すことも可能な自由度の高い物でした。
すなわちこれは、今日でいう労働者階級であると解釈することもできます。
孔子様は「女人と小人養い難し(あるいは度し難し)」と言われたそうですが、これは女の人と子供という意味ではありません。
ここで言う女人と言うのは妻妾のことであり、小人というのは使用人だと言います。
すなわちハウスワイフないしセックス・ワーカーと労働者階級と解釈が出来ます。
このうち、女人の部分に関しては現代的な解釈からは外すこととすべきだと思います。
歴史的背景から見てこれらの女人階級は極めて特殊な物であり、かの孔子様でさえ愛妾を抱えていたという一夫多妻文化の中でのお話なので、私たちがその価値観を推し量ることはあまりに難しい。
ただ、使用人に換してはやはり、ギリシャにおける奴隷に通じる雇われ労働者と解釈すれば見えてくる物があると感じます。
いわばこれ、サラリーマンですよね。
つまり、ずっと後の時代になってオルテガ先生が言った、大衆と言う概念にほぼほぼ通じる存在であったのではないかというのが私の見立てです。
彼らをして、目を覚ましていない物である、という通念があったと考えうると思うのです。
彼等「度し難い」労働者から目覚めた存在、いわばひとかどの存在という物を現す言葉として「士」と言う物があります。
孔子様が教導の対象としているのはこの士太夫階級で在り、老荘のタオもまたこれらの人々を対象とした物でした。
士と言うのは「自ら死に方を選ぶ者」だと言います。
それはすなわち、自ら命を掛けての生き方をする者、という意味でしょう。
雇われ仕事の小人たちとは明確に差異が現れます。
この人間の分類の差が見え始めてきたところで、次回に続けたいと思います。
つづく