先に書いた、キリスト教資本主義の思想の「良く出来ている」という要素を読み取った近代日本人がいました。
新渡戸稲造先生もその一人です。
著作「武士道」は日本の武士社会の考え方を、キリスト教に通用する思想だと訴えるために書かれました。
また、岡倉天心先生は茶の湯がどうようの物だとして西洋社会に著書を著しました。
キリスト教には、遊牧民もまた神に牧畜された物であり、迷える子羊として荒野に倒れるのではなく、約束の地に導かれよう、という明確な出口思想が示されています。
さらにはこれは、平面的な発展しそうに通じると同時に未来への社会構成運動になるという時系列の思想に優れた面が備わっています。
この、信者を発展させることに適している思想の優越性において、どうしても日本の土着思想は譲る物があった。
その危機感が彼等「読み取った人」たちにはあったに違いがありません。
万系一世、天孫を頂点としたイエ社会を持って由とする日本の社会モデル思想では、決してこの広がりを持つことは出来ません。
万民は天皇の子である、という皇民制が大戦時に訴えられたのは、このための苦肉の策でしょう。
それが破れた今となっては、真反対に閉鎖的になっています。
「女性は子供を産む機械」「外国人に参政権を持たせるなんてもってのほかだ」「選択的男女別姓は混乱を生む」などと言った発言はすべてこの保守派の信仰に依る姿勢からくるものでしょう。
保守とはすなわち、信仰を保守している。
外部の人間を「天孫の子ではない」として排除する社会では、女性に子供を産ませ続けるしか維持と発展の方法はありません。
こういった人種的優位主義のような物が「継続可能」であるわけがない。
他者は神が与えた支配対象だからそちらに踏み込んで行って攻めよ、地に満ちよ、とするキリスト教の教えには勝りようがない。
人種的優位主義とは初めからそのような先の無い物だったと言って間違いはないでしょう。
それよりも、形式は譲って文化を残してゆくことのほうがずっと大切であるように思います。