ものすごく寂しい映画を観ました。
冒頭で、主人公の少年は腕を骨折します。
夏休みの体験で森林レンジャーに入門していた処、木から落ちたのです。
九月の新学期が始まるのですが、彼はうつ病で社交不安という症状を抱えていて、ひどい絶望感を感じています。
彼は自分が誰にも愛されていない、注目を浴びたいと喝愛していますが、当然そんな根拠のない肥大したエゴが満たされることはありません。
衆目を集める不良やチアリーダーを横目で眺めています。
この映画、人気者になりたいティーンエイジャーを描いたミュージカルという触れ込みで観に行ったのですが、ここに出てくるチアリーダーや美少女は触れ込みから連想される、Gleeやビバリーヒルズ高校白書に出来るようなキラキラした子たちではありません。
だいぶぽっちゃりしていたり、化粧っ気が少なかったりと言ったフツーな子供の姿が書かれます。
もちろん、BMWやブランド品を持っている感じなんてありません。
だからこそ、主人公の引け目が生々しく描かれます。
彼は白人種で、背も低くなく、太っても居ない。
外見的にはまったく恵まれていない訳ではない。
ダサいですが何か本格的なハンディキャップのような物がある訳ではない。
あるのは自己愛性人格障害のような精神的なハンディキャップです。
この問題は、映画のかなり初めで示唆されます。
主人公には唯一口を利くインド系の少年が居るのですが、彼はその子に「僕は友達が居ない」と延々自分のことばかり語ります。
その子が友達なんじゃないの? と誰もが思うはずです。
でも、彼の中にはぼくが欲しい友達はそういうマイノリティではない、とかもっと人気者としてもてはやされないと嫌なんだ、というような嫌なエゴがあることがここでうかがえます。
このインド系の少年は主人公に対して「そんなのは恵まれた白人の甘えだ」とシビアに言います。
彼自身は移民の子で、自分の進路や活動に対して目を開いて自分の道を歩んでいるので、主人公のことを見下しています。
こんな自己愛が強すぎて等身大の地道な生き方が出来ない少年が、実は自殺した不良少年と親友だったと嘘を言ってしまい、そこから悲劇の少年として祭り上げられてゆく、というのが第一の展開です。
初め、彼はつい出てしまった自分の嘘に負い目があるのですが、それが拭い去られるきっかけとなるシーンがあります。
それは、死んだ少年の告別式でスピーチをさせられるシーンです。
思い出も何も全て嘘なので彼はそんなことはしたくないしひどく怯えた状態でマイクの前に立たされます。
緊張して震えて、原稿を足元に堕としてしまいます。
それを見て失笑する、彼から見たマジョリティの同級生たちは、スマホを出してその醜態の撮影を始めたりなどします。
ここで主人公はいかにも自己愛だけが肥大したなよなよの少年らしい、膝をそろえた情けないしゃがみ方で原稿を拾うのですが、ここで彼の中に「漆黒の悪意」のような物が芽生えます。
彼は原稿を拾うと、雄弁に二人の思い出を語り、自殺した少年の心情と言う体裁を借りて自分の孤独な気持ちを「外の奴ら」に訴えます。
このスピーチがみんなの心を打ち、かつ動画がYOUTUBEやSNSで拡散したことで、彼は全国的に「孤独な少年少女のカリスマ」となります。
これ「ジョーカー」なんですよね。
障碍を持ったなよなよした男が世間への不満を暴力犯罪として表に出した結果、同じ不満を抱えていた多くの人達の暴発を扇動することになる、というのが映画「ジョーカー」だったのですが、この作品では暴力ではなくて嘘と言った形でこの犯行が行われます。
もちろん、彼には彼の事情があります。
子供のすることなので責任性は低く見積もれますし、元々はつきたくてついた嘘でもない。
それに、死んだ不良少年には目が合ったと言うだけで言いがかりをつけられて暴力を振るわれたという貸しもあります。また、だましたクラスメイト達にだって、自分をスマホで撮って笑いものにしよとしたという悪意がありました。
なので彼の嘘による報復は、決して不当だとは言い切れない。
そこがこの手の「ジョーカー」現象の哀しいところなのでしょう。
こうしてカリスマになった少年は、同じ学校のすごく出来る美少女から、社会活動に誘われます。
彼女は黒人種で、アフリカ系が強いのか、あるいは東洋系が入っているのかまず他の子たちとは圧倒的に見た目が違います。
先にこの作品には普通の外見の子供しか出てこないと書きましたが、彼女だけが唯一の例外で、ティーン雑誌のモデルのような美少女です。
ファッションもメイクも、他のキャラクターより明らかに凝っている。
しかも、成績優秀で社会活動に精を出していると言う、将来はRBGさんの後を継ぐようなエリートです。
しかし、彼女自身、主人公と同じメンヘラで、その弱い自分を克服するために意図してちゃんとしようとした結果、いまの位置にいることになった、という存在でした。
ここで、主人公の「悪いことをしちゃったけど相手も悪かったから仕方ない」は残酷にも相対化されるんですね。
同じ環境でも、善の方に自分を持ってゆくエネルギーに換えられる人がすぐそばにいたんですよ。
彼女は主人公を自分と同じだと見て社会活動に誘い、全国の孤独感に苦しんでいる子供たちのための活動を一緒に始めるのですが、ここでやはり人間の質が出て、主人公は傲慢になり、自分のことばかりを優先させるようになり、人気者になったり彼女が出来たりしたことから、道を履き違え始めてしまいます。
まぁ、子供だからしょうがないと言えばしょうがない。
一方で彼の過大評価はどんどん広がってゆき、彼は死んだ少年の家族から疑似の息子のように扱われるようになり、生まれてから感じたことの無かった安らぎを感じることが出来るようになります。
また、その少年の進学費を譲ると言う提案を受けることになり、将来まで開けることになります。
ちょっとした嘘の犯行が、あっという間に「太陽がいっぱい」になってしまうのですよ。
成り代わり、富豪家族への侵入と言う「犬神家の一族」のような話になってきてしまいます。
いや、犬神家ではありませんね。
町山智弘氏の著書「それでも映画は格差を描く」に書かれているように、現在の映画業界においてこのモチーフは繰り返し用いられる物なのです。
そもそもジョーカーでも、母子家庭のひ弱なメンヘラ青年が、富豪を自分の父親だと思い込んだことから狂気に加速がかかるというシークエンスがありましたが、まったく同じ構造です。
ジョーカーではウェイン氏と言うのがその富豪に当たる訳ですが、これ、ブルース・ウェイン、すなわちバットマンの父親なんですね。
ジョーカーとバットマンは表裏一体だと言うことがアメコミ業界では定番のこととして語られますが、映画「ジョーカー」ではまさに本当の息子とその息子に成り代わろうとした道化師の鏡像図が出てきます。
今回扱っている映画では、主人公はこれ以上の犯罪を犯すことは無く、後半は贖罪の物語になります。
きっかけは、彼の母親が富豪家族からの学費贈与の申し出に対して「うちは確かにシングル・マザーで育てていて貧乏だけでお情けはごめんよ!」とこれまた自分のことしか考えていない我儘なことを言いだしたからです。
ですが、これは実は厳しい愛情だということが分かります。
富豪一家は彼を甘やかし、楽をさせようとするのですが、実の母親は現実の苦しさを直視させることが子供に与えられる最善の教育だという責任感を持っています。
この血が出るような軋轢から、主人公が精神を病むに至ったきっかけが語られます。
それは、幼少期に父親が若い女を作って家から出て行ったと言う、平凡と言えば平凡なことでした。
しかし、幼い少年はそれがきっかけで、いつか人はみんな自分から離れて行く、という思いを抱くようになってしまい。乾愛する病に至ったのだ、ということです。
だから自分だけは常に本気で向き合って本当のことを言うのだ、と母親は息子に伝えます。
それに心を打たれた少年は、実は骨折したのは事故のせいではないと告白します。
飛び降り自殺をして失敗をしたのです。
こうして勇気のある告白を経て真実と向き合うことを取り戻した少年は、他の人たちにも真実を伝えます。
結果、彼は一人になります。
しかし母親が教えてくれたように、一人で世界と向かい、自分自身で進んでゆくと言う生き方に至る所で映画は終わります。
エンドロールの途中「あなたもしくはあなたの知っている人が自殺を考えているのなら、24時間どこに居ても相談に乗ってくれる窓口があります」というメッセージが表示されます。
それによって我々は、これが自殺願望を抱えている精神を病んだ人たちへの作品だったことを理解します。
社会から見捨てられ(あるいはそのように感じ)、自己破壊願望に囚われ、あげく他者への攻撃に転化をするというジョーカー現象が、現在の世界では極めてよくみられる傾向だということがこの社会問題意識からくみ取れます。
上に、違う親の子供に生まれたかった、という構造がこのような映画には繰り返し登場するということを書きましたが、日本では本年「親ガチャ」という言葉が話題になりましたね。
まさしくこの映画はそういうお話です。
そして、そういった行き詰まりのような苦しみの中での、きちんと問題に向き合った対策が示唆されています。
一つにはかの美少女のやり方。
もう一つは主人公の選んだやり方です。
行く先はどちらでも同じなのかもしれません。
ナルシシズムの毒に染まってしまっても、解毒の道は存在します。