さて、長々と資本主義と信仰についてお話してまいりました。
アメリカではその濃縮化の結果、トランプ政権という鬼子が生まれました。
彼らの支持層をして、ポピュリズムや反知性主義という言葉が用いられます。
反対に、知性主義層がその力を強めており、国から保守的な信仰に基づいた価値観を拭い去ろうとしているというのが、いまのパラダイム・シフトの中心だと言って良いと思われます。
その余波が中国にも影響し、また我々の国にも及んでいる。
私はキリスト教徒ではないどころかなんの信仰も持ち合わせていない人間ですが、資本主義によって恩恵を受けている現代日本人です。
そのために、宗教や信仰と言う物に大きな恩恵を受けている人間だと断言することが可能です。
2000年前に砂漠で生まれた宗教の拡大によって、いまのこの資本主義世界が生まれています。
そして、予定説を侵攻していない私からするなら、人類はやがて知性主義によって信仰から少しづつ離れてゆき、政治や思想とは切り離してゆくのではなかろうか、というように見立てています。
このたびの長い記事の初めに書いた人間の分類というところに目を向ければ、恐らくはその辺りに分水嶺があるのではないかと私は見立てています。
すなわち、ブッダが説かれたように、信仰を離れた人とそうでない人と言うのが、目を覚ました人とそうではない人の差なのではないでしょうか。
これは単純に特定の宗教を信仰していない、ということではありません。
心の囚われているシャーマニズムのような物を相対化しているかどうか、のようなことであるかと思います。
日本で言うなら、自覚的に神話に由来するイエ信仰によって保守的政治を支持する人たちではなく、由来は知らずともそれらの人々の政治意識に賛同し、その社会意識に同調して生きている人たちが沢山居ます。
それは学校の体育教師かもしれませんし、あるいは少年野球のコーチかもしれません。
また、タクシーの運転手や制服警備員、またマンションの管理員さんかもしれません。
由来も理由も分からないけれども、なにがしか心に根付いてしまっている保守的価値観に疑いを差しはさむことなく、いわば慣性の法則のような物に精神を支配されつくして生きている人々すべてがそうなのではないかと思ってます。
もう一度翻ってそのような人々を、大衆や反知性主義者と言い換えることが可能であるかと思います。
このような人たちが好きな言葉に「絆」と言うものがあります。
絆と言うのは、一定の枠組みを持ってそこに優位性を主張する言葉です。
すなわち、排外主義の言い換えだと言うことが可能ではないでしょうか。
何を排外するのでしょうか。
自分たちと同じ信仰を持っていない他者をです。
以前に書きましたが、人間の脳には帰属、所属を感じることでエンドルフィンが分泌されて幸せな気持ちになれると言う仕組みがあります。
すなわちこれは、排他的になることでもたらされる快楽と言うこともできます。
このような同族意識で快楽を得ることを、手段的ナルシシズムと言います。
ある掘師の人が言われたようなのですが、お客さんから頼まれたときにいったん断る物があると言います。
一つは自分たちが組んでいるバンドの名前。
次は付き合っている恋人の名前だと言います。
これらは間違いなく「絆」のために彫り込むのだと言うのですが、それはこの絆が非常にもろい物だとどこかで予感しているから身体に刻まないと不安なのではないか、ということが語られていました。
集団的ナルシシズムにも、この不安の裏返しだという考えは適応できましょう。
結局、自分一人で個を立てることに対する不安が、そのような絆信仰になるのではないでしょうか。
群れを成す生物の脳の構造に支配された行動です。
伝統的東洋哲学の本質は、仏教、タオ、儒教ともに、自己の確立だと言ってよろしいでしょう。
脳の習性や弱さからくる不安に支配されることなく、自由に生きるというということが個の確立と言って良い。
このような言葉を、もしかしたら昔の人は神通や通天と呼んだのではないでしょうか。
これは人の生き方が、神に通じる、または天に通じるということです。
そのための訓練が、我々の行っている、伝統思想の行であると思うのです。