19世紀に過去の人類の愚行を振り返った大著「狂気とバブル」には、 魔女狩りや十字軍、錬金術と言ったオカルトをあげつらった内容が豊富に含まれています。
その中でちょっと面白かったのは、錬金術師の書いた精霊に関する記述の部分です。
曰く、錬金術師たちは精霊、ないし妖精、あるいはソロモンの悪魔のような物を呼び出して叡知を得ることで錬金術を成すという二重のオカルト構造を持っていたらしい。
彼らが呼び出す精霊は目には見えなくても術者の周辺に常に居て彼らを守護していると言います。
精霊たちは楽しい会話相手となり、遊び相手となるが、魂が無いのですぐに怒ったり命にかかわるような嫌がらせをしたりするので友達になることは出来ないと書かれています。
西洋各地の言い伝えにある、妖精は魂が無いと言う共通認識はそういうことのようです。
この「魂が無い」ということは動物に対しても言われています。
つまり、本能的な獣性が優って一貫した信念のような物がないということが魂が無いということだと言えるでしょう。
そう考えると、これは現代日本人そのものなのではないでしょうか。
キリスト教圏における「魂が無い」と言うのはすなわちキリスト教的信念が無いという意味にも適応できるでしょうから、彼らから見た邪教をあがめる彼らから見た未開人がそれに対応すると言うのは当然のお話です。
しかし、同時に第二次大戦までは彼らはその「教化すべき夷逖」に信念を見出し「侍魂(サムライ・スピリッツ)」などと呼んでひとかどの魂の存在を見ていたとも言えます。
畏敬があったと言ってよいでしょう。
しかし、80年代になるとそこに変化が起きたように思えます。
日本人はエコノミック・アニマル、精神を持たない生産性だけの存在として不気味がられるようになりました。
ここで動物扱いをされているのは、魂が無いというニュアンスが含まれているのでしょう。
このような一貫した信念を持ちえない人のことを、オルテガ先生は大衆と呼びました。
産業革命によって生まれた、画一的な工業社会において信念と言う物を得ないで生まれて来た、その場がたの手前勝手な感情に振り回されるだけの人々です。
あるいはそれはキリスト教に偏った見方で、東洋的、ないし日本的な思想としてはムラ社会と言うのが共同体の基礎となっていたので、そのような同調性は肯定される物だったという人も居るかもしれません。
しかし、日本的精神に根付いていると思われる儒教の思想でも、実は同様のことがあるのです。
以前に「女人と小人養い難し」という孔子様の言において、小人と言うのは使用人のことであり、労働者階級のことである、ということを解説しました。
これでオルテガ先生と孔子様の見解に通底する物が見えて来たと思われます。
孔子様の価値観を見てゆくと、労働者階級にある人は小人、自分で自分の生き方を天下につなげて行ける人は士であるということが伺えます。
この士とはつまり、西洋で言う「市民階級」のような物ではないでしょうか。
社会参画をし、世の中の流れに自ら取り組める人々です。
ここに我々は、東西の人間に対する大きな階層分けをみることができます。
孔太夫の後、儒学を引き継いで大きな発展をもたらした大先生に、孟子が居ます。
儒教のことを孔孟の道とあだ名するほど、東洋思想における巨大な存在です。
この孟子様は、孔子様の死後百年ほどたってから生まれたと言われており、直接衣鉢を託された人ではありません。
しかし、自ら儒学を推し進めてその思想は現代にまで残っています。
その学問において、小人と言う儒教における重要なタームを再定義したのもまた孟子の仕事でした。
孟子曰く、人間には精神活動をする者と肉体労働を生業とする者がいる。前者が大人で後者が小人だと言います。
君子、聖人、士などと言うのが大人、それ以外が小人となります。
孟子の思想においては、前者が世の中の上位に座し、後者が下部の仕事を受け持つと言うのが正しい世の中の在り方だとされています。
これを、単に昔の人の考えた封建社会のことだと言うのは不適切な物であるように思います。
自由主義、民主主義の世の中においては表層的な階級社会と言う物が解体されたとしても、実際には人の質と言う差異は残っており、明らかに実質的な人間の階級と言う概念は存在しているからです。
福沢諭吉は「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と語って学問を勧めましたが、これは実は孟子の考えを否定するものではありません。
と言うのも、孟子と言う人に関するトピックは、かの性善説を唱えたところだというのは誰も否定をしないところでしょう。
この性善説と言うのは「全ての人間には善性がある」という考え方です。
性善説と論陣を敷いた思想として韓非子の性悪説を思い浮かべる人は多いでしょうが、実際にはどちらとも言いきることは出来ない、という性無記切と言う物を告子と言う思想家が提唱しており、善悪が入り混じっていると言う説もあり、また「人による」という説もあることが孟子の書の中に残っています。
これらの所説は現代人の私たちにとっては冷静な見解のように感じやすいと思うのですが、孟子の答えはあくまで「人の性は善である」というところにあります。
罪人の子供であろうと、悪事をなした者であろうと、その本質は善なのだと言うのです。
確かに、動物としての本性は善悪を持たない物であろうが、人間と動物には違いがある、この違いの部分がその善性である、と孟子は弟子に説いたと言います。
これは、キリスト教における動物と魂の話にとても似ているように思います。
そしてその善性を引き出す方法と言うのが、学ぶことだと言います。
私が平素繰り返している言葉で言うと、識を高める、すなわち認識能力を向上させることです。
そのようにして学問で能力を高め、実際に起きている事象を理解し、物の道理を把握する力を得ることで、人はその善性を開花させることが出来るのだ、というのが孟子の考えです。
よって、諭吉さんの学問ノススメと結果において通じてゆくのです。
ではその学問と言うのはなんでしょうかということになりますと、これは技術や知識を学ぶと言う様な生産性に依る物ではありません。
それは肉体労働者と言う物を学問の外に居る人々としていることで理解が出来ます。
ここで言う学問とはすなわち、「精神活動」です。
知的活動ではありません。あくまで精神活動です。
単に専門知識にたけただけの人々に関しては、オルテガ先生も「専門バカ」として否定し、大衆の枠内に位置付けています。
また別の例を挙げるなら、戦後のテレビ番組でなぜクイズ番組が多かったか、というエピソードを並べることも出来ます。
これは、クイズと言う知識の優劣によって競争させる習慣を持たせることによって、GHQが日本にポピュリズムを浸透させようとしたからだと言うのです。
これによって人々の間に広くかつ無意識的に、物を知っていることそのものがえらい、経験や地位、人格ではなくてただ機械的に物を暗記していることが良いことなのだ、という産業社会の歯車になる価値観が行き渡ります。
受験が暗記問題であったことと、その暗記能力による産業社会が大衆社会であることを振り返れば、これは頷けるお話だと思われます。
かみ砕いて言うならば、クイズに熱中し、受験に専念するほど、人はその印象とは逆にバカになって行った、ということです。
そこまでのことを、伝統思想はすでに指摘していたわけです。
知識ではなく、精神の良しあしこそが人の格である、と。
これを儒者は徳や道徳という言葉で表現しました。
老荘思想における道との協調性を意味する道徳とはちょっと意味が違う、モラルの意味の道徳です。
儒教において法治よりも徳治が上だとされるところにもこの価値観を見ることが可能です。
知識、生産性を重視すると言う価値観は肉体労働者の価値観であり、下位の物である。
精神に重きを置く姿勢こそが上位の人間の在り方なのだ、というのがこの考え方です。
精神活動とはすなわち、倫理や理念、公正さを持って天下に向かい合うと言うことです。
繰り返しになりますが、生産性は二の次です。
現代日本の社会の在り方とはかけ離れた物でしょう。
私が繰り返し訴えて来た、現代日本は小人の国であり、それが全ての病の元となっている、という考えはこのように孟子にまで辿ることができます。
そしてこの孟子の思想はまた、キリスト教にも共通する部分がある。
そのために、プロテスタント的資本主義がこれだけ世界的な力を持ったのだとも言えるのではないでしょうか。
このようにして精神をおろそかにした小人の国が、精神病者の国になったのは必然の流れだったように思われます。
いま国の病を改めるためには個々人が精神の病から抜け出した生き方をすることが必要なのではないでしょうか。