前回書いた、中国武術の実戦「械闘」ですが、これを書くにはまず、中国における「身内」の概念について書くのが分かりやすいかと思われます。
というのも、械闘というのは間違いなく、身内とソトとの闘争のことだからです。
外部民族の襲来については非常にわかりやすい。これは元々、相手が騎馬民族やよそからきた海賊で、間違いなくアウトサイダーだからです。
食い詰めてな難民が食料を求めてさまよう流民に関しても分かりやすい。
残酷ですが彼等が村にやってくると食料を奪われるので、昔の村落では深刻な災害とみなしていたようです。
どうようの食料の掠奪でいうなら、馬賊と言う物もあります。
これは騎馬民族や山賊のような集団のみならず、収穫を済ませた農民たちが近隣の他の村を襲ってそちらの収穫も手に入れてしまおうというような掠奪行為の風習があったそうなのですね。
隣村が敵となるケースその一です。
また、宗教に関する物も割とあるようです。
黄巾の乱や白蓮教徒の反乱のように、信仰を中核に抱いた集団が国への革命行為として集落を襲うケースがあります。
はた迷惑な話で、ストレートに朝廷だけ襲って欲しいところですが、なにぶん中国は広大なので中央までの移動ルートにある村落はすべて食料調達ポイントとみなされて襲撃を受けます。
私たち鴻勝蔡李佛拳も参加していた太平天国の乱に関する記述として、太極拳発祥の地とされる陳家溝がこの襲撃を受けたと言う記録があります。
この時、陳家溝は陳式武術の訓練を積んだ村民からなる自衛団が出陣、太平天国軍を返り討ちにしたと言います。
緒戦で敗北を喫して将軍の一人を討ち取られた太平天国軍は「陳家溝は武勇で名高い、これ以上深追いしても傷を深めるだけだろう」と進路を変更、別の村に掠奪に向かったと言います。
これがまさに、典型的な械闘の記録であると言えましょう。
各村にこのような〇〇家と名のついた家系武術があり、男衆はこれらを訓練して外敵の襲来に備えていたのです。
これが中国武術を育んだ土壌です。
北部で言うなら、八極拳と劈卦拳という二大有名武術が発生した孟村というのもこのような「武勇で名高い」村でしょう。
どうして一つの村でこんなに強力な武術が生まれたのだ、という気がします。
この村のある滄州の土地は水滸伝でも囚人の流される「悪来の地」として知られており、往年の武術家はここを通るときは武術家であることを隠したと言います。
知られればすなわち「外部」の来襲だと見なされかねない。
そんなことになっては大変です。
この地は飛びすぎる渡り鳥さえ羽をすべて抜かれると言われるくらいに、外部の者の往来に関して手厳しかったと言います。
私が現在教わっている武術の一つ、通臂劈卦拳はまさにこの土地に根差した古典の劈卦拳です。
現在広く知られている劈卦には主に二つの物があり、一つは古典から枝分かれして失伝を繰り返した後に、民国時代になって西安の国術館で再統合されて編纂された物です。
これは有名な馬氏通備の中の一つであり、馬氏がその編纂をしたものです。
もう一つは、李氏八極拳で有名な李書文先生が八極拳に合わせる形で取り入れた物で、李氏武術の普及に付随して広まっています。
しかしこれは、この派の先生みんなが口をそろえて「これは八極門の劈卦であり、もとの劈卦門の劈卦とは違う」と言うように内容的に改変された物です。
この有名な二派とは別に、古伝の土着の劈卦拳と言う物がかの地には昔から伝わっており、それが嘉靖の大倭寇の折には戚継光将軍に注目されたり、日本軍の侵略のおりには抗日戦の武術として大活躍をしたりしています。
日本軍の侵略もまた、中国の人々からすれば「倭寇」であり、地元滄州の自衛団の人々の抵抗は「械闘」となります。
つづく