最近、ちょっとだけ困ったことが起きています。
というのも、散々ここに書いてきたような伝統思想の視線からの現代社会への解析なのですが、これと内容的にほぼ同様なことを昔から知られている社会学者の先生が言われているということです。
私は社会学に関してまったく無知ですし、その有名先生も伝統思想の行者ではない物でしょう。
しかし、どうも私たちの視点の「手触り」のような物が非常に似ているように思ったのです。
もちろん、学者先生のおっしゃることのほうが遥かに高く、深いのは当たり前なので、似通っているのはあくまでその「手触り」の部分です。
その先生も私と同じく、現代人の大衆に対して「クズ」と言う言葉を使います。
私は伝統的な気の思想を由来として性の力の影響と言う物を非常に重視して語っていますが、その先生は援助交際などの性の視点から社会を切って来た方です。
ですから、私自身はまったく気が付かなかったのですが、私の見解を読んで「有名先生が同じようなこと言ってたなあ」などと思われた方も実は多かったのではないか、というようなことを衒っている次第です。
いや、まったく私はその先生の言論には触れてこなかったんですよ。
もっともテレビに出て朝まで語ってらっしゃった時代には私は世の中のことには関心がありませんでしたし、その後も著書の一冊も読んだことがありません。
今回初めて、動画でその先生の発言を目にしてこのように感じているところです。
ただ、この状態に関して自己分析すると、どうもこの先生には三島と言う由来があるようなのですね。
三島と言えば私は若いころに「葉隠れ入門」くらいしか読んでいないのですが、それでも日本という風土と性について描いてきた人だと言う風には聞いています。
この三島が、日本民族のことを劣等民族だというように語っていて、その愚かさについてだいぶ表現をしているらしい。
おそらくは三島先生もまた、多くの古典的教養を土台にこのような見解に至っていた、ということなのではないかと推測している訳です。
この三島に影響を受けた社会学の先生ですが、先日目にした動画では日本がこのような愚民社会になってしまった理由として「悲劇の共有がないからだ」ということを語られておりました。
これは、元々はニーチェの発想らしいのですが、非常に興味深いお話です。
悲しみという高等な脳の働きが生き方に与える影響について、年末に記事を書きました。
もっとずっと以前に「RED」という絶望的な西部劇マンガについて書きました。
その作品の中では、大殺戮を引き起こすフィクサーは「悲しみが足りない。殺し合って悲しみを共有することで異民族は本当に仲良くなれるのだ」ということをモチベーションとしています。
これは私にはまったく理解できないお話だったので引っかかっていたのですが、このたび社会学者の先生のお話のおかげで少し見えてきました。
この先生のお話では、縄文人と弥生人の間でも同じことが起きていたそうです。
外来の異人種との間でまず大殺戮が起こり、お互いに問題意識を共有して和解が行われたときに、互いに大量に命を奪い合ったと言う悲しみがこの両者を強く結びつけ、新しい社会の土台になったと言うのです。
確かに、功利や予測的な理論によるのではなく、感情の共有と言うのはもっとも多くの人が一つの宅に着く動機になるのでしょう。
常時憂いと共に生きるということが士大夫の生き方だということが昔の書物には書かれています。
士大夫、精神活動を旨とする人、もっとざっくりいうならひとかどの人物と言ったところでしょうか。
先憂後楽と言う言葉があり、士大夫は誰よりも先に憂いを抱き、全ての人が楽に至った後でようやく自分も楽に至る、という意味となっています。
有名な後楽園と言うのはこの言葉に由来しています。
こんなことはもう、お地蔵さんの逸話と同じで、世界中のすべての人が幸せになるなどいうことはありません。
つまり、自覚を得てから死ぬまでずっと憂えるという生き方をするということです。
その悲しみを抱いている人たちと言うのが、中華的社会において精神活動を司り、世を導く人々だとみなされていた訳です。
私自身は決して立派な人でも政治活動をする人間でもありませんが、在野の師父としてこの価値観の元にこれからも活き、活動をしてゆく所存です。
その立場から改めて、利己的なだけでしかないポジティヴ・シンキングやスピリチュアルのような目くらましを否定する発言を発信し続けてゆきたいと思います。