前回は間違った知の結び方とそれをしてしまう人たち、そしてその間違った知性に容易く体重をかけてしまう人たちについて書きました。
このように、知と知を結ぶ知性には様々な様態があります。
そして、この知性の質を調整するのが「理性」となります。
自分は自分の認識能力によってこういった形で知識を結んで心象を結んだけど、これはあるいは正しくないかもしれないし、いまは明らかに正しく見えるけど別の知識が入ってきたらベクトルが変わることはあると思う、というような姿勢で自分の知性を取り扱う能力、それが理性ということでしょう。
感情から距離を置く、というように解釈してよいかと思います。
民主主義圏における学問による人間の構成というのはこの理性の獲得を前提として成り立っています。
ですので、民主主義の元祖とも言えるヴォルテールの思想として「私はあなたの意見には反対だがあなたが意見を言う権利は命懸けで守る」という標語がある訳です。
これ、自分の見識に執着していたら成り立たない。
理性を獲得していなければ成り立たない姿勢です。
そしてその理性を前提として民主主義、自由主義ということは発生してきたのです。
ここで勘違いしてはいけないのは、このヴォルテールの姿勢を逆転させて愚民社会を現実的に創始させてしまったゲーテのスタンスとは面白い比較を見せます。
ゲーテは理性よりも感情を優先させるロマン主義の重鎮ですが、彼は同時に階級主義者で、平民の発言権を認めなかった。
だから本来は、彼が民主主義に繋がることはないはずなんです。
しかし、銃剣とギロチンで武装した革命派は彼の思想から階級意識を切断して感情優先で革命を起こしていましました。
結果、他人の口をふさぐために武力と処刑を用いるという力の民主主義が出来てしまった。
これ、現在の日本社会も直系で継承していますよね。
明治時代の日本が警察機構や社会構成の基本として学んだのがこのフランスの民主主義です。
逆に、ヴォルテールの民主主義は相手に発言をさせます。これは死守する。
その上で相手の意見に関しては「なに言ってんだボケ!」「間違ってんだよ馬鹿野郎!」と罵る。
でも、第三者が相手の権利を奪って黙らせようとしたなら命懸けでそれを阻止する。
つまり、相手が何を言うのも自由。それに対して自分が何を言うのも自由。というルールのリーグです。
これがアメリカ式の民主主義の基礎ですね。
しかし、日本では良い歳した大人が野党に対して「批判ばかりだ」というようなことを言ったりする。
他人の批判をするのは良くないことだ、というアホみたいな大衆感情が普及しています。
いや、野党ってのは与党を批判してその在り方を正すのが存在意義なんだよ、ということが分かっていない。
他人の批判をする人の口を塞いで意見を出無くしてしまおうという考え方が非常にこの国では強い。
これ、つまりギロチンで首を刎ねているのと同じ方針です。
出させるだけ出させてブラッシュアップしよう、という環境が薄い。
当然、派閥主義で風見鶏的な世相となっていき、真実やより良い方向に向かおうという自浄作用は機能しなくなってゆきます。
大衆社会ですね。
我々の国には、原則的なルールを基に向上を目的として相手の意見を徹底的に批判するという理性が足りない。
これは、検討していない、考えていない、ということですよ。
つづく