前回までは、知、知性、理性という段階的な内面の成育について書いてきました。
本来は三段階構造を前提として教育と言う物が行われ、理性を持った市民によって国が運営されてゆく、という青写真が資本主義圏の国家ではあったはずなのですが、すくなくとも日本ではこの市民の育成という物がまったくされておらず、教育は形骸化して愚民化教育と化しているように思われて仕方がありません。
と、このように書いたところで、実社会の政治の視点を離れて学問としての話をもう少し進めていきます。
上の知→知性→理性という三段進化を人類は経てゆく、という概念を説明いたしまが、実はこの先に神の領域があります。
民主主義というのは清教徒の考えだという前提があるので、人類の進化の先には神が背景として存在しているのです。
それがどのような形で存在しているのかを説明するために、前に話したサイコロ・キューブをまた持ってきます。
一面のサイコロが9個で、正面を向いている目がすべて1で統一されていて、上を向いている目がすべて2で統一されている、という積み上げられたサイコロの群体です。
これ、見えるのは正面と上だけですが、増したと裏に出ている目は知性によって推測できると書きました。
しかし、左右の面が何の目を出しているのかはわかりません。
また、立方体を成立させるために中心に土台として埋蔵されているサイコロに関しては、どちらを向いているのかはまったくわかりません。
それどころか、そこにあるのがサイコロなのかどうかも見ることができません。
これを知ることが出来るのが、砂漠宗教で言う唯一神です。
この神と言うのは我々のように五感で知識を得て知性で見えない物を推し量るのではなくて、目や耳と言った器官、東洋哲学で言う五宮を通さずに理解できるとされているのだといいます。
眼球や視神経と言った物理的な物を必要としない。
そういう通過点を必要とせず、初めからすべてを知っている。
この全知をして神の能力とします。よって、神は物質ではありえません。
人の肉体から生まれて人の肉体と血で作られた御子であるキリスト様には、この全知の能力はありませんでした。
そこに意味が存在します。
神の沈黙を信徒は議題としますが、初めから神は言葉を発しないのでこれは当然となります。なにせ神には口も声帯もないということになるからです。
その神の意志を、耳と言う物理的な器官を徹さないと聴くことのできない我々物理的な存在である人類には聴くことは出来ません。
我々は肉体と言うこの物質に閉ざされた存在です。
神の全知の認識能力を、西洋では直観力と言うそうです。
肉を通さず、直に観ずる力。
西洋科学の発展は、物質を通して神の存在を知覚してくる道だったとも言えます。
見ることの出来ない引力や電波を、我々は視覚以外で知覚する方法をそこに求めてきました。
ヴィクトリア期の交霊術やゴースト・バスターズでのESPカードの実験のような物は、彼ら西洋圏の人々にとってはただの見世物や好奇心の対象ではありません。
神に近づくための道となります。
これと共通のことはアジアでも行われてきました。
認識能力を高めることで、物理的な能力を高めてゆこう、という発想です。
サイコロ・キューブで言うなら中央のサイコロを透視で見えはしまいかと模索するようなことをしてきました。
私もこういった直観力の修行をしてきました。
またの名をを神通力と言います。
面白いことに、やはり神に通じる力と言う言葉が使われています。
しかし、正統な東洋哲学においてはそのような物は軽蔑されるようになってきました。
それらが肉体を通して得られた超能力である限り、ただの苦行の果ての身体能力であるからです。
それが本筋から外れていることは、すでにお釈迦様が看破していました。
ビックリ人間になることと大悟を得ることは違うことなのです。
これはすなわち、理性ということではないですか。
我々は洋の東西と時間的な思想の経緯を経た結果、その一点に集約されてくるのです。
中国武術や 気功は、結果として身体的な超能力のような物を得ることがあります。
しかし、それらは単なる過程や教材のような物です。
本道となるのはやはり識、認識能力を高めて、その後に理性を選択するということです。
これにおいて大人、聖人、または士大夫や君子などと呼ばれる存在として生きて世の中の経世済民を行うことをして、中国思想と言う物がパッケージされています。
そしてこれは、キリスト教圏における市民の発想と実によく重なっているのです。