前の記事のつづきです。
カンサンジュン先生の主張を受けて、フリーアナウンサーの小島慶子さんは大変にエモーショナルな形で、ご自身を含めたメディアの責任を問うています。
ちょっと女性誌を開けば「一歩上を行く」「勝ち組コーデは」「季節を先取る」など、逐一闘争をあおるような文字が踊っており、常に相争うように洗脳を仕掛けられているかのようだからとのことのようです。
女性のファッションのような、ささやかな日常の彩り、喜びさえ、他人を出し抜き、踏みつけてゆくように刷り込まれる。これは恐ろしいことかもしれません。
結果、彼女らは自分が好きな物ではなく、ステータスにおいて他人を倒すための装束をまとい、自分を戦略的優位に進軍させるための行軍としてのスポット巡りに出るかもしれません。
女性を愛でたいという心を持つ者にとっては、大変殺伐とした気持ちになるさみしい現象です。
私が平素、男性たちのみに限らず、常に女性や子供も意識して武術や気功の伝人としての活動をしているのも、このような世の中の、あえて言いますが「間違った方向に向かっている流れ」に抵抗することに使命感を感じているからです。
そのためには、武術好きな男性を鍛えていればいいと言う物ではありません。
この流れについて思うに、流されている人々は中身のない空っぽな状態だから、相対的に他人と比較して優位に立つことが価値観になってしまって、くだらないハラスメントやマウンティングばかりする世の中になってしまったのだと思うのです。
だから、それらがこの世界においてはそんなものは本当はあまたある価値観の中のたった一つの物でしかないってことを知るべきだと思う。
その上で、さらにはそもそも少林武術っていうものが、現代人と同じく、かつ加えて物質的な病苦や飢餓、戦争に苦しめられてきた人々が救いを求めてきた救済のための思想だから。
この、禅の思想、そしてその原型であるとされる老荘思想は、自己の確立をずっと訴えてきました。
他人は他人、自己は自己。
「他人との比較が地獄への道の第一歩だ」とはお釈迦さまも言っています。
まさに今のこの世の中が必要としてる一つ目の言葉だと思います。
現代社会のこの瞬間の、薄っぺらな相対的価値観に人生を流されるよりも、とっくの昔にそこを乗り越えてきたお釈迦様の教えで世の中を見る方が、必ず確かな物が得られるはずだと思います。
さらには、老荘においては「万物斉同」、すなわち、すべての価値は相対的な物であると言うことが思想の基盤になっています。
つまり、あなたはあなたが好きな物に価値を見出すのだ、ということです。
これはつまり、それが好きな自己、それに価値を見出す自分の発見です。
そう、自己の確立への一つの踏み出し。
ここから始まって、肉体的な気功の行によって、自分と言う物が本能と自我の二つからなっていることを体感してゆきます。
他人が何をしているとか、他人が何ができるとかはどうでもいい。
自分が何を感じて何ができるのか。そしてそれが自分にとって何なのかが整理されてゆきます。
本能としての自分、知識としての自分。この二つと、それらが存在しているこの世界、すなわちタオの三つを感じることによって「世間」と言う物がどんどん小さい物に感じられてゆきます。
もちろん、人は世間に生きることになるのですが、ただ世間だけしか知らずにそこに閉じ込められているのと、より多くを感じて自分の望んだ形でそこに居るのとはまるで違います。
こう書くと難しそうに思えるかもしれませんが、伝統ということを経験して知るだけでも、目に見える世間だけがすべてではないことが明確に分かってくるはずだと私は思います。
だから私はあえて、この現世では格闘技のチャンピオンになってモテるわけでも儲かる訳でもない伝統技芸の伝承者となることを望んだのです。