カン・サンジュン先生が曰くには、日本の自殺率の異常な高さには構造上の問題があると言っているそうです。
みなさんは日本の年間自殺人数をご存じだろうか?
三万人です。
死因としては第五位の不慮の事故に続く六位。割合としては2・8パーセントだそうです。
ちなみに一位はガン、二位が心疾患、三位脳溢血、四位肺炎。
で、事故ときて次が自殺。
この問題に関して、カン先生は、結局心の問題が置き去りにされたまま、過剰な経済活動が民意として浸透した結果だと言われているようで。
私が、政治活動の過熱に対して冷淡で、自分のスタンスとしては常に心の在り方を訴えているのはやはりそこ。
だからこそ、伝人という仕事をして、生身で伝えたり生身で挫折を繰り返したりしている訳です。
その中で、私が人に、物を伝えるということってのはまぁ、なにがしかの力を誰かに与えるということだと思うわけです。
そこにおける挫折っていうのは、力を与えた対象が、より悪い方向に行ってしまうということなのね。
これ、昨日の作家さんの話に直結してるんだけど、善と悪ってものが真っ二つに存在しているとしてね。
私が弱い善であると思って力を貸した物がね、力を得ると悪になってしまうっていうことの繰り返しがあってね。私には。
これ、ほんとに最近も繰り返してきて、私ももうどうしていいか分からない問題でね。
例えば私の友達って、なんかものすごい発達障害のひとが多い。
だから生きるのがうまく行かないんだけど、私は初期の段階で彼らのことを好きになってるのって、その発達障害って診断される対象の部分だったりするんだよね。
せせこましい世事に染まってないような部分ね。
でも、それが次第にそれだとやってけなくなって、どんどん卑屈になってきちゃうのね。
そこで私がまぁ一緒に生きていてね、貸せる力は貸したりするとね、まぁうまく行き始めることもあるんだよ。
でね。
そうなるとどうなるかって言うと、今度はそいつらが、優位に立ってすごい人に対して悪をなしてくんだよ。
卑屈さから力を得ると、今度は強い悪になるってことがすごく多くて。
だから私はいつも、自分のやっていることを見失うんだよね。
卑屈さや愚かさ、惨めさ無様さ弱さ邪悪さ貧乏くささなんかが、全部優位に立った時に人に不快感を与えて自分を満たすっていうことを覚えた生き物になっちゃってるのね。
これは、私が求めてそこに向かって尽力してきたこととは真逆なんだよ。
公正さに対する背反だし、愛に対する不実だと思う。
こうなると、私は悪を広めるために生きているのと変わらなくなる。
えー、つまり、毎年この国では三万人の人間が、自分の判断でいなくなっているってことです。
それだけの人が死を選ぶくらい、この国には絶望が充ちていると思う次第なのですが、サンジュン先生はこのことを、経済に由来するのではないかとみなしているようです。
戦後、突然学歴、高度成長主体の社会が訪れて、誰かを踏みつけることが当座目の前の指針となった、と。
大局的に見ると分からないけれど、とりあえず目視できる範疇での人間よりも優位に立っていれば「正しい」という価値観が生まれたわけです。
これは昔、エリンって作家が「アメリカン・サイコ」って小説で描いた通り、高度経済的価値観に染まった人間は、付き合いのある人たちより一ランク上のスーツ、一ランク上の名刺を使い、みんなが知っている小説は読んでいなければいけない、行列出来るレストランでは食べていなければいけない、でなければ、劣っている、と行った思考に囚われる精神性と同様の物でしょう。
つまり、自分ではない他人がいいと思っている物に、後付けで乗っかってゆくという価値観で、文字通り近視眼的なものだと思う。
この結果、自分で物を判断するとか、自分が何を好きなのかとかっていう己自身の中身を失った。
そういう人間は常に相対的な、かつ競争的な価値観しか持たないので、何かに満足するということが出来ない。
ただ、人の物を奪う習性が付くばかり。
結果、自分より優っている者があればその足を引っ張り、貶め、自分より強い物にはこびへつらい、弱い物は抜いてこないように踏みつぶすという人間になってしまう。
昔の友達にもこういう人が居て、常に誰かから強要されたことにいそしんでいて、自分がやりたいと思ったことはいつも後回しだった。
そうなると、たぶん人生のほとんどの時間は嫌なことだけして終わるのではないだろうか。
人間は自分が恐れる物と同化する習性があるというけれど、それに対して自分の価値観に伴った理性の力で制御を掛けないと、自分の人生のどこにも自分の意思と言う物がなくなってしまう。
この手の人間は結局、敵に迎合し、自分を愛してくれる人に対しては踏みつけたり、何かを奪ったりのハラスメントやDVをすることしか出来なくなってしまう。
なぜなら、自分を攻撃してこない、よくしてくれるような人もとっさに攻撃対象としてしまい、目の前にある奪えるとにかく奪おうという貧相な習性が働くから。
そして相手がまっとうなら、結局差し出されたその愛情は失われることでしょう。
なぜなら亡くなるまで攻撃することを辞められないから。
近視眼的な競争価値観に支配された人間の典型とはそういうものり、そして、そういう人間が攻撃をしあって生きていて、結果毎年三万にばかり死んでいっているっていうのが、ぼくのこの国です。はい。
この傾向への抵抗が、私の伝人としてのたった一つの役割だと思う。
つづく