前回は俳優陣の間で会話が成立しないということまでを書きました。
しかし、彼らの演劇スタイルは家福がやっていたそれぞれが自分の言語で話してプロジェクターで字幕と投影するというスタイルなので、芝居そのものには問題はないわけです。
ここで一度振り返ってみて欲しいのは、この「共同作業」に乗り出しているのが、日本人、中国人、韓国人、フィリピン人であるということです。
中国人の方は、もしかしたら台湾人かもしれない。
これ、地域的に思い当たると思います。
第二次大戦で日本が侵略した地域で、現在発展してきている国々です。
その面々で、ロシアのプロレタリアート演劇をやるのですね。
これはつまり、ロシアの共産化によって始まった第二次大戦のヴィジョンではないでしょうか。
私がこの映画を観て三日後に、ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。
まさにこれは、いま観るべき作品です。
西側の侵略に対する危機回避として日本がアジア統一を称して侵略戦争を起こしたことと、今回のウクライナ侵攻は非常に相似した構造を持っているように感じます。
過去の日本の拙速な近代化による西洋への対抗という失敗したヴィジョンを、今回の劇中では別の形、より穏当な形で表現しているように私は思いました。
アジア諸国の近代化への提言であるように思います。
では、その提言された形とはどのような物でしょうか。
この映画への評として、芸術とは何か、コミュニケーションとは何か、発信とはどのようなことか、という部分に目を向けた物を多くめにします。
おそらくその通りなのでしょう。
私が目をつけたのは、ではそれらの大目的とは、ということなのですね。
それがこの、前回は大戦という過ちを犯した、より良い形でのパラダイム・シフト後の在り方、ということです。
つづく