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ドライブ・マイ・カーのアジア史 5・玉座の継承 注・ネタバレ 

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 背景を描いたところで家福に視点を向けましょう。

 彼は自分の空間、居場所として愛車の中を大切にしています。

 彼の車は左ハンドルの外国車です。

 家福は、左目に緑内障を発症しており、視界に死角が生じています。

 この、自分に見える世界と視神経、認識の話は以前にも扱いましたね。

 彼はこの左目の死角に関して、右脳が脳の機能で補ってしまっていたために自分では死角に気付いていない、と医者に診断されています。

 彼は広島までは愛車で移動したのですが、プロデューサーから運転を禁止されてしまい、代わりに運転手をあてがわれます。

 この若い女性のドライバーと家福というのが、原作小説ではほぼ登場シーンの九割を占める存在なのですが、拡張された映画版では彼女の出番は極めて絞られています。

 しかし、彼女は「構造」として作品に極めて重要な機能を果たしています。

 家福の重要なプライヴェート空間に唯一存在を許された妻以外の存在であり、かつその在り方は人や女性と言うよりも車の機能の一部であるかのように見ることが出来ます。

 彼女に運転を任せる、座っている席を譲り渡すということがおそらくはメタファーになっています。

 そしてこのことがパラダイム・シフトに関わることであるというのは原作からの脚色に反映されています。

 原作の家福は「女性全般の運転が苦手」だと言う描写があります。

 しかし映画版では、一度ハンドルを任せた音に対して「君を愛しているけど、一だけつ我慢できないことがある。それは君の運転だ」と言うセリフに変更されています。

 対偶するかのように、家福とドライバーの初めての遭遇のシーンでは「運転手は要らない」という家福に対してドライバーが「私が若い女だからですか?」と問うやり取りがあります。

 これはつまり、家福に対して「あなたはオールド・ノーマルの側の人間なのか、そうではないのか」と問うていることになります。

 これらの演出の末、家福は彼女をテストして、結果運転を任せることにします。

 最初、彼女が運転することになったときに、家福はその後ろのシートに座ることになります。

 しかし、物語に主演俳優が入り込んできた時、初め家福は彼を自分の隣に載せます。

 ですが、この主演俳優がある通過儀礼を通して役者として成長をしたとき、家福は彼をドライバーの後ろの席に座らせるのですね。

 つまり、彼はまた席を譲るのです。

 これは、彼がかつて演じていたワーニャ叔父さんの役を譲るということと同時に、別の意味が重なってきます。

 上で書いた彼の通過儀礼というのが、人を殺すということなのですね。

 彼は殺人と言う責任を負うことで、役者としての、あるいは人としての「中身」を得ます。

 なんでもかんでも野蛮なことをすれば役者として格が上がるという考え方には反対ですが、ワーニャ叔父さん自体、銃を振り回して人を殺そうとする役なので、演技に重みが増すというのは理解が出来る気もします。

 これによって「空っぽの存在」だった彼の人生が変わり、かつて家福が乗っていた席に座った時に、この青年は音が語っていた物語の続きを家福に話します。

 これはつまり、彼女と寝ていたという克服ですね。

 つまりは、彼の懺悔です。

 懺悔は誰にする物かというと、神ですね。

 この物語の最初で、家福は「ゴドーを待ちながら」の主演をしています。

 ゴドーとは神のことですね。

 ゴドーがやってきたときに、俺たちは救われる、というセリフでこの演劇は終わります。

 主演俳優は罪びとであるという自分を認めることで、空っぽではない、少なくとも罪という実存を持った存在になるのですね。

 これは、以前からこちらで書いてきた「悲劇の共有」だとも言えます。

 その共有によって、彼は家福がかつて座っていた席についている。

 彼は家福を継承する人でもあったというシーンです。

 

                                                                      つづく

 

 


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