異界の死者の場所で鎮魂を行ったドライバーと共に、家福は自分が音を受け止め切れていなかったことを懺悔します。
こうして二人は、世界に通底する混沌の力の働き、また自分には理解できない物を受け入れるということを見つめ返します。
この旅路で演劇の主演をすることを決断した家福は広島に戻るのですが、ここで初めて原爆ドームが画面に大写しとなります。
これまで、広島を舞台にしてきたお話なのに一度も移されることのなかった原爆ドームが直視されるのです。
これこそが、いままで想像で補って直視を避けていた物を家福が受け入れて元の世界に戻ってきたということの表現であり、この物語が第二次大戦までのパラダイム・シフトの悲劇の共有をモチーフにしているということの証ではないでしょうか。
この後、家福の物語は舞台の最終シーンで終わります。
すべてを失って絶望したワーニャが、聖女として描かれている姪から「苦しみを受け止めて人のために働いて死んで、その先で神様に会いましょう」という語りかけを受けて、なんとも言えない顔をして暗転する、というシーンです。
このシーンは、セリフの朗読としてこれまでにも映画で描かれていますが、その時のセリフでは「人のために」という言葉が入っていなかったと記憶しています。
死ぬまで働いて、働いて、というようになっていました。
プロレタリアートです。
しかし、本番ではそのセリフが変わっている。
つまりこれは、生産力としての人間、小人から、人のために社会参画をして働く人間、市民への転化が描かれているとも受け取れるわけです。
家福の話はこれで終わりです。
もしこれで映画が終われば、以前に書いてきた宮崎駿ワールドに非常に近い。
罪深き旧社会の男が聖女に救済されて終わりです。
しかし、この物語はその先に進みます。
あのドライバーのその後が描かれて映画は終わります。
彼女は家福の車に乗って、パンデミック下での韓国に居ます。
これはつまり、彼女が家福の継承者となったということを意味しているのでしょう。
何を継承したのでしょうか。
それは、より良い形でパラダイム・シフトの先に向かう、世界市民としての日本人ということでありましょう。単に世代交代と言ってもよかもしれません。
次代の日本人としてのです。
もし、家福がひとたび後継者として選んだ主演俳優が彼の跡を継承していれば、それはギリシャ神話の時代から続く、オイディプスの継承が行われたと言うことになります。
つまり、自分の父親を殺して母親とまぐわうという文化継承です。
この物語の中では先に音とまぐわっており、後に家福の息子になると言うことで変奏的ではあるのですが、明確にその要素が配置されています。
この構図は構造主義的な物でもあり、近代心理学の中でもルサンチマンの構造として取り上げられています。
しかし、だからこそこれは、近代からのパラダイム・シフトの表現足りえると考えます。
そのようにして父親に成り代わった息子が文化を継承するのではなく、若い娘であってもよいはずなのです。それが現在のパラダイム・シフトの先に想定されているニュー・ノーマルであるはずでしょう。
家福とドライバーが初対面に交わした会話「私が若い女だからですか?」の意味はそのように読み取れる訳です。「あなたの運転して来た席を継ぐのは私ではダメなのですか?」と。
その発言の結末として、彼女が家福の座を継承している、というのがこの物語のラストシーンです。
この作品で、パンデミックが起きている、すなわち現在の話である、という描写があるのはこのシーンだけです。
これが時代的な演出意図や、パラダイム・シフトの描写だと取るのは必然の話であるように思われます。
以前、COVIDによるパラダイム・シフトを認識した時に、いまの世界情勢は冷戦を思わせる、と書きました。
現在、ロシアによって行われている侵攻は旧ソ連時代の復興を求めているのではないかという見解を目にします。
私には、旧ソ連どころか帝政時代の復興なのではないかというようにさえ見えます。
これは、ロシアと言う国が前回のパラダイム・シフトを上手く行えなかったからだと見ることも出来るでしょう。
そして、私の感想としては、日本もまたそれが上手く行ったとは言い切れない。
そのやり直しとして行いたいことが、ドライブ・マイ・カーには描かれていたと思われます。
おそらく、ロシアの侵攻によってこの作品はより賞での評価が高まることかと思われます。
我々にはいまいちど、強く悲劇の共有を意識する必要があるのではないでしょうか。