前回、アジアの伝統身体哲学の伝承者としての私の生徒さんへの取り組み方について書きました。
今回もその続きです。
自分で生徒さんを募集して人に伝える活動をしていながら、伝統中国武術や気功に関しては誰にでもは教えない、というのもおかしな話のようですが、治療や他の武術に関しては広く門戸を開いています。
あくまで、その上位にある物に関しては門が狭いと解釈していただければ良いかと思われます。
これは中国武術の世界では当たり前の話で、同じ老師が開いている門の中でも、初心者はここまで、認められたらここまで、普通はこの段階まで、弟子になるとこの辺りまででその中でも高位者はここまで行けて、家族だったらここまで、門を継ぐ人だけがこれを教われる、というのは明確に存在している制度です。
私自身も、そういう階梯を知らないうちにくぐって多くの先生方から認定していただけた結果、いまここに至っています。
同じ先生に同じように習っていても、まったく至るところは違います。
ある時に先生から「あなたは今日からこれをやりなさい」と言われることもあれば、教わっている内容に関して「これは他人に教えるな」と言われることもあります。
また「これは誰にも見せてはいけない。お前に子供が出来たら、それにだけは教えてもよい」と言われたこともありました。
蔡李佛の師父などは非常にこの辺りもあけすけで、時には「一応これ教えるけど、失敗すると偏差でおかしくなりますからね。あとは自己責任です」と言って教えてくれたものもあります。
自分で自分と学問の関係を冷静に見て、進んでも大丈夫か、一端引いた方がいいのかなど判断できる「理性」が必要となります。
このようにして教わって、覚えるだけは覚えてバックアップも残し「いまはまだ危なそうだから何年かして自分の能力が安定してから取り組もう」とアークのようにしまっている秘法がうちには沢山あります。
そういった物の中には、自分はやらないけどこの生徒さんには向いているな、と思ったときに「注意しながらやってみてください、あなたには良い効果があると思います」と言ってお分けする物もあります。
私がこのように、自分では即時取り組まない色々な物を持たせていただけているのは、私が師父だからでしょう。
継承者として、これらの物を保存して次に伝える役割があるからだと思われます。
私自身が自分個人のために役立てなくても、のちの世界の人類に受け渡すことが出来ます。
このような在り方が、継承者と継承ということなのではないかと思っています。
自分のためだけにやっていては継承は出来ないのではありますまいか。
このような継承者選びの話として面白いお話を聴きました。
、宮崎駿監督が過去に一度だけ、弟子を取ったことがあったというのです。
スタジオのスタッフではなくて、弟子です。
生徒さんや生産力では無くて、後継者です。
この弟子募集には多くの人が詰めかけて、一人だけが選ばれました。
そのオーディションの時に、監督は「トトロというのは古代の恐ろしい生物で、さつきやメイを食べなかったのはただたまたまお腹がすいていなかったからに過ぎない。そのことについてどう思う」と応募者に質問したそうです。
多くの参加者は、自然の猛威や思想の深さについて「すごいですね」みたいな一辺倒のおべんちゃらじみた表層的なことを答えたそうです。
しかし、最後の一人となった人は、他のみんなが通り一遍なことは言っている、自分はもう選択肢が無い、と焦って必死で考えたそうです。
その結果の答えが「いや、トトロは歯がみんな臼歯で犬歯がないので肉食ではないはずです。ですので自然界の構造上、それはありえない。その質問は嘘です」という物でした。
もちろん、この方が唯一の弟子です。
継承というのはこういうことでしょう。
口先で胡麻をすったりおべんちゃらでなんとかなるような個人間の関係性の上にあるものではありません。
視点を同じくして真実に取り組む視線を共有できる人間にのみ可能だということなのではないでしょうか。
最近、私の所に中国武術や身体操法についてのお問い合わせが増えました。
私自身が直接行っていることだけに限らず「中国武術と言えば翆虎師父だと業界の玄人に訊きました。〇〇拳の信頼できる先生は知りませんか?」というような質問もいくつも受けました。
もちろん、その時の態度によって答えは変わりますが、基本的には誠実にお答えしています。
あ、だからと言って別に質問してこないでくださいね。
私は他所の先生を採点するような立場の人間でもないしそんなこともしないし、そもそも隠棲の身を称していますので人付き合いはしていません。
ともあれ、問題は良い先生にたどり着けるかどうか、ということだけではなくて、そこに至ったからと言って決してその良い内容が得られるということではないですよ、ということです。
私が思うような本質を得たいと思うなら、日々哲学書を読んで物を学び、お寺を巡って善いお坊さんを見つけて教えを請いてその実践をしながら静かな人生を送ることが良いかと思われます。
そうすれば良く生きることが出来た結果、本当のことが得られるかもしれません。
あるいは数年そのように暮らしたところで、禅師の方から「実は自分は秘伝の武術を得ているのだがこれを得るかね?」と訊かれたりして、それに対して「いえ、自分はもう充分に得られて満たされました。それは必要ありません」と応えられるように至っているかもしれない。
そのようなことを私は繰り返してきました。
そのたびに師父はにこりと笑って「あなた合格です」と言って下さいました。
目先の物に飛びつく欲に駆られて本質を見失っている間は、きっとどのよな環境にあっても何も理解は出来ないのではないでしょうか。