以前から繰り返し書いているのですが、中国武術では本当のことを師から教えてもらえることは極めて少ないです。
そうやって本当のことを教えてもらえないまま何十年も経つということは、珍しくないどころか当たり前です。
私はそういうことが好きではないので自分は幸いにも得られたことを誰にでも出来るようにまとめて伝授をしていたのですが、やはりこれは上手く行きませんでした。
私の狙い通りにみなさん身体的には出来るようになったのですが、精神に改善が見られなかった。
伝統身体哲学が最も大切にしてきた、精神がまったく養われない。
簡単に物理的な結果だけ手に入れてしまって、人間として良い物にまったくなっていません。
どころか、持ち前の浅ましさが助長されてより高慢で卑しい人間になる人達さえいました。
これは私の間違いだ、と大きく反省し、伝える人間を選ぶことにしました。
結局は、昔の先生方の行ってきた伝統的な教授法が正しかったのです。
最近、ツイッターで生徒さんがリツイートしていたのですが、あるお坊さまが通っているジムでトレーニングを終えた後、そこのスタッフから「今度うちのジムでマインドフルネスのクラスも開こうと思っているんですけどどう思いますか?」と相談を受けて「宗教的な徳目が無いと共感性の低いサイコパスが増えるだけだからおよしなさい」と答えたという話を目にしました。
その通りなのです。
私がオカルトはもちろん、たいして罪もないオンナコドモ(差別用語)がただ気持ちを楽に日常を暮らすためだけのスピリチュアルにまで大反対の立場を示すのは、それが偽物である間だけならまだしも、いちまつ本当のことが伝わっていたりすると大ごとになるためです。
瞑想というのは、フィジカルな物です。
確立されたメソッドによって脳や神経の働きを活性化させて物理的に人間性を変革させます。
私たちの中国禅、気功や武術というのはそういう力の行です。
これを、方針なしに行えば明確な迷走となり、暴走となって事故を引き起こします。
こういう物を昔から、野狐禅、禅病と呼んでこの世界では注意が促されてきました。
また、このような行を失敗して高慢で浅はかな俗物としてエゴが肥大した人間を「天狗魔道に堕ちた」と表現したりします。
天狗が山伏の格好をしているのはこのためでしょう。
本質看取をしないまま、フィジカルな能力だけを高めても本質的には無意味どころか有害です。
現在、スポーツ界ではドーピングが話題になっていますが、最新のドーピングでは化学的な合成物を伴わず、天然のホルモンを用いた物が行われつつあるそうです。
パプア・ニューギニアやサモアには草食動物と同じく、動物性たんぱく質を摂らずに腸内細菌の化学変化によって植物から筋肉を作る種族の人々がいるのだそうで、彼らの腸内細菌を移植すれば他の民族でも同等の効果が期待されていると言われています。
元々人によっては先天的に持っている人間の能力であり、検査にも引っかからない。
ですので、ドーピングと言う概念そのものをいまいちど見直さないといけない発見だと言われていると言います。
ただ問題は、じゃあそれであなたは何になったの? ということではないかと私は思います。
ボディ・ビルから発展したフィジークと言う概念、その中のビキニ・コンテストという種目では、鍛え上げた肉体をコンテストするものでありながら、美容整形もありだといいます。
もちろんこれは、ボディ・ビル自体が試合期間前までのドーピングが横行した結果として後付け後付けでルールの見直しをしていった結果のお話なのでしょうが、美容整形で作った人工的なサイボーグ・ボディを披露する選手たちの気持ちが私にはわかりません。
外部から見るだけなら、自動車の見本市でも観ているような感覚にはなるのですが、人間のモノ化という現代社会の病弊が顕わにされて居るように感じられて、美しいとも感動的だとも思えず、入賞者への敬意も持つことが出来ない。もったいない。
もちろん、こういうことの積み重ねが医療の発展につながっているは理解が出来るので、術式を施している医療や効果を見せている化学の発展に関しては驚きを抱かざるを得ないのですが。
そのように、ただ物理的な結果だけを求めることと、人力で道をたどって結果としてゴールに行き着くことは意味が違います。
禅の世界では、「鬼に在っては鬼を切り、仏に会っては仏を切る」という思想があります。
自分を害する物も益する物も切り捨てて自己によって自己を高めるという意味でしょう。
これがなければ禅の具体である中国武術に取り組む意味が無い。
ですので私は、やっていること自体に自分を意味で見出せる生徒さんに、結果的に教える形になった、という以外では真実を伝えることがもう出来ません。
言わないで二十年も三十年も期待をさせたまま謝礼を受け取るとちょっと気が咎めるので必ず先に言うようになりました。
つづく